(6)窮地でのピンチ
そんなわけで、昨日から今日にかけて発生した国永とのやり取りの影響か、私の周りはいつも以上に賑やかだった。まさにひっきりなしに『観客』が訪れる。話題は一から十まで国永の件。勘弁してくれ。昼休みに突入した頃には、既に疲労困憊だった。
そのくせ、国永の周りに人はいないのだから、私の気分は急降下する一方だ。どうせ訊くなら、もう一人の当事者にも押し掛けて欲しい。彼は寝たり食べたりしているが、会話をする余裕は十二分にありそうだ。なので、是非あちらへ。いっそ首からプラカードを下げてはくれまいか。『古比奈結海さんとは、婚姻関係を結んではいません。その予定もありません』と一筆したためて。
「あの、古比奈さま?」
はっと我に返る。右手が奇妙に振り上がっていた。危うくこれを机に叩き付けるところだった。
にっこりと笑い、そそくさと手を膝の上へ。なんでしょう、と訊ねると、お嬢さまは私の挙動不審さなど気にも留めていない様子で、むしろひどく興奮した様子で、指を組んでもじもじした。
「先程から、隣で国永さまが呼んでおりますよ?」
「……あ、あら。そうでしたの。ごめんなさい、まだ体調が完全には治っていないみたいで、ついぼんやりしてしまうの」
ほほほほ、と笑いながら顔を反対側へ向ける。言われた通り確かに、国永は私の方を見ていた。心なしか不機嫌そうに口を結んでいる。
「やっとこっち見た」
拗ねた口調に、なんと返すのがお嬢さまらしいのかがわからず、黙り込む。戸惑う私に溜飲が下がったのか、彼はすっくと立ち上がると、軽く首を傾げた。
「お昼、一緒に食べようって約束したでしょ。行こ」
「そっ……」んな約束は、した覚えがございません。
そう続けようと思ったが、ぶっちゃけこの状況で昼食を取るのは、精神的にも厳しかった。病み上がりということもあって、少々仮面が外れやすい状況下にある。いつぼろが出ることやら。ついさっきだって危うかった。
だからといって、噂の相手と仲良く食事をするのもどうかと思ったが――そもそも彼と私は友人関係ですらない――、仮に誘いを断ったとしたら、また周りから集中攻撃を受けることになる。それは嫌だ。げんなりする。
受けるか、断るかの二択は、実のところ選択の余地はほぼ無かった。
「そうでしたわね。ご一緒させて頂き、光栄でございます」
ふざけんな、と拳を突き出したいが、ここは我慢だ。
案の定というべきか。案内されたのは屋上だった。
太陽の光がぽかぽか暖かい。そよ風が床の表面を撫でていく。一緒にいるのが国永だということが難点ではあるが、心地よい環境であることに違いは無かった。
彼はというと、さっそくフェンス近くに腰を下ろし、手に提げていたランチバッグから、私の二倍、下手したら三倍はあろうかという弁当箱を取り出していた。
「全部召し上がるのですか……?」
「うん。休み時間用と放課後用は、別にあるから」
まだあるのか。朝から晩までよく食べる男だ。戦慄する私を放置し、国永は「時間がなくなる」と弁当を啄み始めた。
……ん? 私、なんで呼ばれたの?
戸惑う私に、彼は「食べないの?」と宣う。食べますけども。真横も正面も気が引けて、結局彼の隣に、一人分の空間を開けて座る。無言のランチタイムが始まった。
「そうだ」ほぼほぼ食べ終えた頃になって、国永が口を開いた。彼はランチバッグから無造作にクリアファイルを取り出す。中には数枚の紙が入っていた。反射的に受け取り、首を捻る。疑問に答えるように、国永が言った。
「昨日のノート。これ、別に返さなくて良い」
「まあ、ありがとうございます。でも国永さまも、途中、授業に出られていなかったではないですか」
「前から思ってたんだけど、古比奈、お嬢さま口調が似合わないね」
「は!? どういう意味よそれ!」
「あと今日はあぐら掻かないんだ。残念」
「あんたがやめろって言ったんでしょうが!!」
ぐわっと怒鳴ってから、我に返る。いかん、また乗せられている。くすくす笑う国永をじっとり睨み付けると、「……ああ、そうそう、ノートね」とようやく話が戻った。
「ノートは元々自前。授業は普段から復習のために耳に入れてるだけだから」
最大級の嫌味が、さも当然のように返ってきた。つい真顔になる。これ以上突っ込むのはやめよう、と心に決めた。聞けば聞く程、腹が立つだけだ。
「そういえば、昨日あの後、ハイ……猫は?」
「あ~……普通に元気そうだったよ。ご飯も食べたから安心して」
「……ふうん、そう」
やはり餌を貰えれば誰でも良いんだな、あやつは。
それきり、私と彼はまた無言となった。
放課後、校舎裏に向かうと、珍しくハイが先に鎮座していた。呼び掛けるよりも早く、猫の丸い目が私を捉える。ハイは立ち上がると、尻尾をぴんと立てて私に駆け寄ってきた。なんと珍しい反応。相当お腹が空いているんだろうか。
足に擦り寄る猫のために猫缶を取り出すが、無反応。空腹、ではないのだろうか。
「どーしたの、ねこた?」
しゃがみ込むと、ふっと顔が近付いた。猫の鼻先が、とん、と軽く私の鼻に触れた。目を丸くする私を見ながら、「大丈夫?」と言わんばかりの心配そうなハイの目。この子もこの子なりに、何かを察し、心配してくれていたのかもしれない。
「ありがと、ハイ」
濡れた鼻先の感覚に急速に愛おしさを覚え、私は猫を抱き上げ、頬ずりした。私の腕の中で、ハイは大人しく身を任せている。毛はもふもふで、その身体は湯たんぽのように温かった。初めてできた抱っこに、私は感動で心を震わす。
……が、至福の時はほんの一瞬だった。
「にゃ」
数秒間はなすがままになっていたハイだったが、突然前足後ろ足を総動員して、私の顔を押しやった。割と力強い。根負けて手を離すと、空中で身体を捻った猫は、転ばず優雅に着地した。
不機嫌そうに尻尾を地面に叩きつけている。「もう十分でしょ」と言いたげだ。そんなに嫌がらなくても良いのに。何よ、その変わり身。
――なお、本日の猫缶(ささみ味)は、非常に食いつきが良かった。やはりお腹が空いていたらしい。
「所詮は餌か。餌なのか」
私はチップスの袋をばりっと乱暴に開くと、お菓子をひとつ、口に放り込んだ。うん、今日も美味しい。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「はよ、古比奈」
「おはようございます、国永さま」
不本意な挨拶にも抵抗が薄れてきた今日この頃。慢心があった可能性は否めない。私は心のどこかで、国永の口さえ封じれば安全だと思い込んでいたのだ。
実際には、危険はありとあらゆるところに潜んでいるというのに。
昼休みの校内放送が始まる。ほとんどはリクエストされた音楽が流れる仕組みだ。私はなんとはなしにそれを耳に入れながら、弁当箱を取り出すために、鞄を開いた。まさにそのタイミングで、横を通り抜けようとしていた生徒の手が、私の鞄の取っ手に引っ掛かった。
「あっ……も、申し訳ありませんっ」
「いえ、お気になさら」ず、とは続かなかった。私はさあっと青褪める。
いつも通りの昼休み……に、なるはずだった本日。
私は、人生最大級(新記録更新)のピンチに見舞われることとなった。
「古比奈さま、それは……なんですの?」
クラスメイトの視線は、一心に床に向いている。そこには、口が開いたままの私の鞄が落ちている。――ついでに、お菓子の袋も散乱している。
善意も悪意も無い、これは事故だ。偶々鞄を開いた時に、傍を通っていた生徒の手が、鞄の持ち手に引っ掛かった事故。床に落ちる鞄から、ざざーっと大量の秘密が飛び出した。そういう、小さいけれど、大きな事故。
心臓がばくばくいっている。完全に油断していた。こんな場面、想定していなかった。
「これ、庶民が口にするものではなくって……?」
誰かの一言に、びく、と肩が震える。どうしよう。考えれば考える程、真っ白な頭が、更に白くなっていく。飛び交う言葉に、上手く対応しなければいけないのに。
「……ああ、ごめん。それ、俺のだ」
周囲が騒めく声の中で、国永の落ち着いた声がよく通った。
「国永さまの、ですか?」
「そう。俺、庶民派だからさ、好物なの。……だから俺、古比奈に言ったんだよね」
普段は表情を変えない国永が、不自然なくらいにこにこと可笑しそうにしている。
何を言うつもり、とは訊けなかった。答えを聞きたくなかった。なんだろう、これはフォローではない。これは違う。多分違う。むしろ罠だ。攻撃だ。嫌な予感しかしない。違う意味で心臓がばくばくし始めた。
「それ、自分で買ってくる度胸を見せてくれたら、付き合ってもいいよ、って」
何を言ってやがる、この野郎。
空気が、凍る。真っ先に復活したのは、私――ではなかった。
「結海さま、そこまで国永さまのことを……!」
「すごいわ、純愛だわ!」
「婚約される日も近いのね!」
きゃいきゃいといつものテンションではしゃぐお嬢さまがた。
待って、違う。待ってったら。誤解だ。しかし否定できない。
「約束だから、付き合おっか」
「なっ」がたっ、と音を立てながら立ち上がると、今度はクラス中の視線が私へ集中した。
この状況下、私に許された発言は、ひとつだけだった。私は引き攣り笑いを浮かべる。
「あ……ありがとう、ございます……」
「いえいえ。これからもよろしく」
国永は笑いながら、菓子と一緒に転がり落ちていた猫缶を拾い、くす、と笑った。
――どうしよう。今、ものすごく、こいつの横っ面を引っ叩きたい。
「よかったですわね、古比奈さま!」
「……そうね、嬉しいわ。ええ、とっても……」
後で絞める。放課後一番に、捕まえる。絶対に!
そうこうしている間に、鐘が鳴った。貴重な昼休みが終わった。どっと疲れた。
ああ、もし願いが叶うならば、今日という日が消えてなくなればいいのに。