(5)微熱、高熱
「……先生、いないな。仕方ない」
気付いた時には、私は薬品のにおいがする保健室のベッドで横になっていた。ふんわりと布団が掛けられる。その手つきはまるでお姫さまでも扱うかのようで、つい笑ってしまった。
「なに笑ってんの」
む、とした声が聞こえる。
「別に」ふふ、と熱っぽい息が口から漏れる。「似合わないから」
「悪かったね」
不貞腐れた調子で彼は言い、足音が離れていく。ああ、似合わない、と言ったのは、彼に対してではなく、自分に対してだったのだけど。それを弁解する体力も無かった。
気を悪くしてしまったかな、とぼんやり思う。同時に、後で謝らなくては、とも思ったけれど、肝心の『後』になったら、私はこの時のことをあまり覚えていない予感がした。全体的に不安感が薄い。そこまで感情が働いていないのだ。
「はい、これ使って」
思いがけず近い距離から、再び声が降ってきた。薄っすら目を開く。あれ、でも私、いつの間に瞼を閉じたんだっけ。駄目だ、思い出せない。
ぼやけた視界が徐々に鮮明になる。目の前に差し出された物は、いわゆる体温計というやつだった。
「私、熱無いよ」
「何を根拠に。いいから、さっさと測って。自分でできないなら、手伝うけど」
それは御免被る。私は口を尖らせて、渋々体温計を受け取った。上半身を起こして、脇に挟む。
待つ時間はやけに長かった。ピピ、と鳴ったそれを取り出す。画面を見て、――思わず、二度見する。当然ながら、数字は変わったりしなかった。固まる私の手から体温計を引っこ抜いた国永は液晶画面を見るなり顔を歪めた。
「三十八度五分」
「はい」
「熱、あるね」
「……一般的見解では、そういうことになるのかも」
「ん?」無意味な悪あがきは、彼の神経を逆撫でしたようだ。薄っすら笑った顔が怖い。
「熱、あります」
「だよね」
どの口が、熱が無いなどと抜かしたのか。言外に、そういう非難の色が見られた。
「お腹でも出して寝たの?」
「失敬な」いくら私ががさつだからって、さすがに今時期に腹を出して寝る程、馬鹿ではない。
熱を自覚したら、更に身体が熱くなった気がした。怪我を見たら、余計に痛くなるのと同じ効果。ほら、だからやっぱり、熱なんて測るべきじゃなかった。そんなことを口にしようものなら、また睨まれることは必至だったので、大人しく口を噤む。単純に発言することが億劫だったというのもあったけれど。
それにしても、と私はぼんやり考える。高熱を出すなんて小学生以来だ。何を隠そう、私はお淑やかなお嬢さまからはおおよそかけ離れた存在で、決してひ弱なんかではないのに。それがなんだって、こんな、……ああ、ひとつ、思い当たることがある。
「日曜に、歩いたからだ」
「なんだってまた」
「猫缶……」
「猫缶?」
「探したの。肉の」
「は……」
会話をしているつもりは無かった。投げ掛けられた言葉に対し、思考がそのまま垂れ流しになっているだけだった。だから、相手が黙ると、私も黙る。
意識がふよふよしている。夢の世界に旅立つ直前に、再び国永が口を開いた。
「とりあえず、今日はもう休みなよ」
「やだ」
「やだって何」
「授業、出る……」
「後で俺のノート貸すから。一儲けだってすればいいよ」
それは魅力的だ。一攫千金のチャンス。しかし好条件なのにどうしてか、違和感がある。なんだろう。考えたいのに、私のぐだぐだの脳は、正しく機能してくれない。
靄が掛かった思考の上に、グレーの毛並みが浮かび上がってきた。黒いインクを零したような模様が見える。
――ああ、そうだ。
「鞄……」
「それは今から俺が持ってくるから、古比奈は大人しくしてて」
「うん、でも……。ハイにあげなきゃ、猫缶……」
再び沈黙。しかし先程よりも早く途切れた。
「駄目。休んで」
「でも」
「でもじゃない」
「じゃあ――」
身体、怠い。そう思いながら、視線をゆっくり国永へ向ける。彼は、これまでに見たことがないくらい、情けない顔をしていた。眉が八の字になっている。こんな朦朧とした状態じゃなかったら、腹を抱えて笑っていたかもしれない。
「……猫缶、国永にあげる」
だから、放課後、あげてきて。待っていたら困るから。
最後まで続かなかったけれど、頭の良い彼は、私の言いたいことを汲み取ってくれた。その上で、国永は首を振る。
「やだ。駄目」
「なんで」
「昨日買ったなら、期限とか全く問題無いでしょ。古比奈が持ってきてよ。その方が嬉しい」
主語が無い言葉に、はてと首を傾けた。
別に国永を喜ばせたいわけではないし、猫にとっても誰が餌をあげようが関係無いはずだ。食べることができて、腹が膨れたら同じだろう。故に、気にする必要もない。私だって、……あえて自分であげたいわけでもない。喜んで食べる姿を見て、嬉しいなあ、なんて思ったりしないから、問題無い。
――もし私が元気だったら、そう返したはずだ。しかし残念ながら、この時の私は長文に対応できる気力は残っていなかった。
辛うじて考えが及んだのは、極めて直近のことだけであった。
「でも、今日の分」
「それは俺がなんとかするから」
国永は、強く言い切った。そろそろ体力が切れそうだった私は、それならいいか、と納得する。ハイの好みを知っているくらいだから。彼なら大丈夫だ。私は安堵した。
「ありがと」
笑い掛ければ、面食らった顔をされた。
「……いいから、寝てなよ」
彼が言い終わるタイミングで、保健室のドアが開いた。女の人の声がする。先生という単語も聞こえた気がする。それで私は、保健室の先生が来たんだな、と判断した。
そこから先のことはよく覚えていない。
目を覚ますと、そこは家のベッドで、窓の外には朝日が昇っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
教室に入ると、私よりも先に着席していた国永は、普段通り、ハンバーガーを食んでいた。私を見るなり、ぎょっとした顔をする。なんだその幽霊を見たような顔は。
「はよ、古比奈。……もう大丈夫なの? まさか翌日に来るとは思わなかった」
「おはようございます、国永さま。お気遣い感謝致します。わたくし、幸いなことに身体は丈夫なのですのよ」
ころころと笑ってから、居住まいを正し、頭を深々と下げる。首だけにならないように、腰からしっかり曲げる。……こと今回の件においては、お嬢さまの仮面は無関係だ。教室で力が入らなくなった時に、彼に世話になったことは薄っすらと覚えている。
「昨日は、ありがとうございました」
「ん、別に」あっさりとした返事に、何故だか拍子抜けな気分になる。なんだろう、演技とでも思われただろうか。結構真剣に、頭を下げたんだけどな。
微かに肩を落とした私に、国永は軽く口角を持ち上げた。
「古比奈が元気になったなら、いいよ」
きゃああっと沸き立つ観客、もといクラスメイトのお嬢さまがたと一緒に、私まで思わず声を上げそうになった。悔しいことに。
だというのに本人はといえば、早々に私から視線を外し、がつがつとバーガーを食べている。こちらが動揺していることなど、知ったことかと言わんばかりだ。いや、知られても困るのだが。
……なおこの後、私はお嬢さまがたに取り囲まれることになる。
「ああ、あの甘い雰囲気」
「結海さまの蕩けるような眼差し……」
「滅多に見ることのできない国永さまの微笑……っ!」
「そこには、お二人にしかわからない思い出がおありなのですわ!」
「古比奈さま、やっぱり――」
両手を胸に添え、ふるふると打ち震えている彼女たちの目は、爛々としていた。余程刺激に飢えているものと見た。そういう時は、個人的にはジャンクフードがお勧めなのだが、さすがにそれは言えない。
ごくりと喉を鳴らし、見るからにどきどきした面持ちで詰め寄ってくるお嬢さまに、何故だか私まで動悸が激しくなり――
「お二人は婚約しているのではありませんの!?」
がくっ、と。身構えていた反動で大きく肩を落とした。
「そ、そんな、まさか。違いますわ。ほほほほ……」
ちょっと待ってよ。どうして、婚約まで話が飛ぶの!? もう一歩手前とか無いの!?
……いや、まあ、一歩前どころか三歩前の事実だってありはしないのだけれども。
あと、ぜひ訂正させて欲しいのだが、私は断じて『蕩けるような眼差し』なんてした覚えはない。
ちょっとどきっとしただなんて、そんなこと……あるわけ、ない。……はず。