(4)悔しいけれど
「はよ、古比奈」
「……おはよう、ございます、国永さま」
翌日。国永は何事もなかったかのように私に話し掛けた。だから私も、いつも通りに見えるように努めた。何故か私以上にそわそわしていた周囲は、つまらなさそうに萎れている。お嬢さまがたにとって、国永と私のラブロマンス(注:捏造・脚色が大部分)は刺激的な娯楽なのだろう。私も他人事であれば楽しんだかもしれないが、当事者ともなれば話は別だ。正直に言おう。勘弁してよ!
顔に淑女の微笑みを貼り付け、内心では「ぬああああ」と雄叫びを上げていた私の目の前に、ずいっとノートが差し出された。
「ん」
「こちらは……なんでしょうか」
「俺のノート」
見ればわかる。訊きたいのはそういうことではない。危うく睨み付けるところだった。彼を前にすると、どうも猫を被れなくなって困る。
「昨日のとこ、写して良いよ。ほら、昨日は、……体調悪そうだったから?」
くす、と密かに笑う。レアな笑みに、黄色い歓声がそこらかしこから上がっている。しかし私にとってはそんな甘いものではない。むしろ悪魔的だ。私が授業に身が入らなかった理由を、一番よくわかっているはずなのに、笑うとは。ああ、まったくもって憎らしい。
更に憎らしかったのは。
(わ、わかりやすい……!)
成績優秀者のノートは、ぶっちゃけ先生の授業よりも綺麗に要点が纏められていた。
図解を利用することで、初見でも話を追うことが容易だ。着色はルール化されており、どこが重要か、と迷う必要が無い。ひとつひとつ大きさが揃った几帳面な文字は、右上がりにも右下がりにもなっていない。まるでひとつの美術作品のよう……などと言っては、さすがに言い過ぎか。言い過ぎではなかったとしても、本人の前では絶対に言わない。言いたくない。認めたくない。
ジェットコースター並みに進んでいく授業の中で、一体全体どのようにしてこれを作り上げているのだろう。食っちゃ寝しているだけのぐうたらな同級生が、途端に違う生き物に見えてきた。
――売ったら金になるんじゃないか、これ。
悪魔の囁きを、私は必死で押し殺した。悪魔なんて、国永一人で十分だ。
休み時間を利用して、せっせと書き写す。時折こちらを可笑しそうに眺めてくる国永の存在は、気にしないように心掛けた。
「ありがとうございました」
辛うじて放課後には間に合った。端を揃えて返却すると、彼はツナのサンドイッチを頬張りながら、こてりと首を傾げる。
「思ったよりも早かったね。役に立った?」
「……ええ、とても」
悔しいことに、とてもよく。
ノートに記された範囲のことであれば、テストで良い点数が取れるだろうと確信する程度には、とてもよく。
それでつい、他のページまでぺらぺら捲ってしまったことに関しては、本人には絶対に言わない。
人も疎らだったという油断もあり、私の顔には少しだけ素が漏れ出ていた。つまり、若干悔し気に顔が歪んだ。私の反応を見て、にやっと笑う国永は、本当に性格が悪いと思う。
「ってことがあったのよ、にゃん太郎」
今日はサーモン味だ。肉系はまだ入手できていない。これでも一応良家のお嬢さまなので、習い事やらなにやらで予定が詰まっており、自由な時間を取ることができないのだ。週末になったら、隙を突いて町へ繰り出すつもりでいる。
「まったく、悪魔に魂を売らなかった私を、褒めてほしいもんだわ。もし私が悪人だったら、在学中にひと財産築いてるよ」
相変わらず良い食いっぷりのハイは、ぶーぶーと文句を垂れる私のことなど見向きもしない。餌まっしぐらだ。少しくらい気にしてくれたって良いのに。くそう。
ぱり、とコンソメ味のチップスを齧る。美味しい。
私は束の間、怒りを忘れ、ジャンクフード漁りに没頭した。
くれぐれも、「それ猫と同じ行動じゃん」などと言うなかれ。
猫だろうが、人間だろうが、美味しい物を前にしたら同じ反応になるのは当然だ。そうでしょ?
というわけで、私たちはお互いに、しばらく無言で好物を貪り食った。
――週末。
「意外と種類が少ない……」
私は猫の絵が描かれたパッケージをじっと睨んでいた。
普段寄る店に肉系のウェットフードが置いていないことはわかっていた。そう何度も気軽に行けるわけではない。だからあらかじめ数種類買っておいて、当猫の好みを確認しようという計画……だったのだが。
正直、難航していた。
魚に比べて、肉のウェットフードはやけに数が少ない。需要が無いのだろうか。確かに猫には魚というイメージがあるけれども。
既に何店舗が巡っているが、どの店も程度の差はあれ、同じようなラインナップだ。他の店を回ったところで、そう大差は無いだろう。
歩き通しで、少し疲れた――普段は車で送迎が基本だが、今回はお忍びなので、徒歩でうろつくはめになったのだ。お陰さまで足がぱんぱんで嫌になる――。心なしか、頭がくらくらするような。手の甲で薄っすら搔いた汗を拭う。
「ふっ、今日のところはこれで勘弁してやろう」
鼻を鳴らして、私は『とりささみ』と書かれた缶詰を引っ掴んだ。
缶詰の側面には、目をぱっちり開けた猫が描かれている。
(うーん。うちの子の方が可愛い)
ぽんと浮かんだ妙な対抗意識を、ぶんぶんと顔を振って吹き飛ばした。
いやいや、別に飼ってないし。うちの子とかじゃないし。
可愛い、のはまあ、認めるけれど。でも大抵の猫は可愛いものだ。
再度、猫缶を見下ろす。
……喜んで、くれるだろうか。
そんなこと考えると、なんだか気持ちがふわふわした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
週明けまでの私は、まるで遠足前の子供のようだった。要するに、新たな味の猫缶をハイが食べる光景を想像して、浮き足立っていた。
そわそわ準備していたら、いつもよりも早い時間に起きてしまった。送迎担当のおじさまは目を見張り、「何か楽しみなことでも?」と私に訊ねた。「いいえ。至っていつも通りよ」と返したが、上手く騙されてくれただろうか。
きっかけは、国永の言葉だ。それを思うと悔しさが滲むが、さりとて心の動きばかりはどうしようもなかった。心なしか、頰も火照っている気がする。送迎のおじさまにバレたのは、これが原因かもしれない。
早く放課後にならないかな。
私は朝礼が始まるのを、頬杖をつきながらぼんやり待った。
「はよ、古比奈」
「……」
「古比奈?」
「え? あ、おはようございます。国永さま」
びく、と肩が震える。私の顔を覗き込んだ彼は、微かに眉を寄せた。
「古比奈、なんか今日……いつもと違う?」
「いいえ、普段通りですよ」
そんなにわかりやすいだろうか。お嬢さまの仮面が壊れないように、そっと頰に手を添え、顔を隠す。
国永は、なおも不審そうに私を見ていた。
絡んでくる国永が余計なことを言う前に、適当な話題を振る。
「そういえば、今日はいいお天気ですわね」
「…………」
「昼には更に暑くなるそうですもの」
「…………」
「今でも十分暑いですけど」
「あのさ古比奈、それ……」
何かを言い掛けた国永の発言を遮り、朝礼が始まった。渋々口を噤んだ彼はしかし、何故か私をじっと見る。授業が始まってからも、それは続いた。まったく、なんだと言うのか。居心地が悪い。
私は見られていることへの苛立ちもあって、あえて彼を気にしないように心掛けた。
ああ、それにしても、本当に今日はやけに暑い。春はこんなに暑かっただろうか。温暖化の影響? 逆上せたみたいに、顔がほかほかしてきた。
「――……なさん、古比奈さん?」
「へぁ……?」
間抜けな声が口から漏れた。目をぱちぱちと動かし、ようやく事態を理解する。しばらく前から、私は先生に指名されていたらしい。ガッと熱くなった頰を押さえながら、慌てて起立する。乱暴に立ち上がったため、椅子がガタッと大きく音を立てた。
その音が、やけに頭の中で反響する。なにこれ、気持ち悪い。
「あ――……れ?」
視界が傾いた。足がまるで軟体動物になったかのように、ぐにゃりと歪む。力が入らない。
「え?」
目の前の教室風景が、ずず、と上方へ動く。違う、私が、落ちているのだ。
横からぬっと伸びて来た手が、私の腰に回り、身体を支えた。
「先生、古比奈が体調悪そうなんで、保健室に連れてきます」
どこからか国永の声がする。遠いような、近いような、よくわからない距離感。
私に触れる手が、熱くて冷たい。
「ほら行くよ」
声が頭の中でぼわぼわと反響しているような気がした。行くって、どこへ。……ああ、保健室? でもなんで保健室? いつもより格段に遅い思考回路は、おそらくどこかでショートしていた。いつまで経っても解が導き出せない。あまりにも全てがふわふわしているから、いっそこれは夢ではないかと思えてきた。さて、ならば現はどこだろう?
半ば引き摺るようにして、彼は私を連れて行く。――この時、どこをどのように、どの程度の時間を掛けて進んだのか、後になってもちっとも思い出せなかった――。