閑話:いつか落ちてくるその日まで(前編)
初めは、揶揄うことだけが目的だった。
別にそれだって、深い意味があるわけではなく、『道を歩いていたら偶然無償の福引があって、暇だったからなんとなく回してみた』というレベルの話だった。目の前で大した労力も使わずに愉しめるというなら、それに越したことはない。……本当に、ただそれだけ。
いつだってできて、いつだって止められる、そんな遊びの延長線上にあるもの。
――いつからだろう。それが変わってしまったのは。
「はよ、古比奈」
朝、教室、あるいは今日のように校門付近で古比奈結海に声を掛けた時の反応は、大概の場合決まっている。彼女はまずその身を強張らせ、不本意そうに唇を結び、振り向く。それから、それらの感情を堪えるように一度唇を噛んでから、にこりと笑みを作って、こう言う。
「おはようございます、国永さま」
彼女は、それだけ返したら自分の義務は終わりだと言わんばかりに、ふいっと顔を背け、『それ以上話し掛けたら怒ります』というオーラを周囲に漂わせた。……生憎と、それを聞いてやる義理は無いので、基本的に全て無視するが。
こんなにわかりやすいのに、本人はいろいろ隠しているつもりでいるらしい。
ツンと澄ました顔をしている古比奈の横に並ぶと、彼女は少し早足になる。どうにかして撒こうとしているらしいのだが、行き着く先が同じなのに、無駄な努力だと思う。頑張ってスピードアップしていく様子がおもしろいので、本人には伝えないけれど。
「おっはよ~、瑛士くん!」
教室のドアの近くでは、従姉妹の国枝みのりが待ち構えていた。
『安心して、もう瑛士くんに用は無いから、付き纏わないよ!』
と、つい先日聞いたはずなのだが、舌の根の乾かぬ内にとはまさにこのことだ。大方、新が何か言ったのだろう。様子を見て来い、だとかなんとか。みのりは新の発言があれば、一秒前の発言すらすかさず覆すほど、新に傾倒している。実の兄にそこまでするほどの魅力があるとは到底思えないのだが……。
「結海ちゃんもおはよ!」
「おはようございます、国枝さま」
「ごめんね、ラブラブな登校タイムを邪魔しちゃって」
「お気になさらず。本日は偶然、門のところで、本当に偶然、お会いしただけですので」
古比奈は、やけに『偶然』の部分を強調しながら、そのままそそくさと自分だけ教室に入っていった。
みのりはそんな古比奈に軽く手を振りながら、俺に向かってこっそりと含み笑いをした。新が絡みさえしなければ、みのりは幼少期から常識人で、勘も鋭く、計算もできる至って普通の――あるいは『普通』よりも幾分か優秀な人物だ。だからこそ新の傍にいられるという面もあるのだろうが。
「前途多難だねえ」
「……そうでもないよ」
ぱちくりと目を瞬かせるみのりから、そっと視線を外す。
全力で押し込めば容易く手に入れられる自信はある。古比奈結海というお嬢さまは、流されやすい上に、騙されやすく、その上あまりにも耐性が無さすぎるから。
そのさしたる例が――
「あー、まあ……そっか、新くんにも宣言しちゃうくらいだから、思ったよりも進んでる……のかな?」
――そういうところだ。
売り言葉に買い言葉。本人にとっては、おそらくその程度の感覚でしかないそれらは、相手に付け入る隙を与えるには十分すぎるほどに、十分。つけこもうと思えば、いくらだってそうできる。
(ただ……)
押し込んで流されただけの軽い感情では、別の人間の手によっても同じように簡単に流されてしまいそうで。
――それは、おもしろくない。
トン、と。額をつつかれる。
「眉間のしわ、すごいよ」
「余計なお世話だから」
片手で振り払って一歩離れると、みのりは、おもしろい玩具を見つけた時のように、にんまりと笑った。
「……新に言わないでよ」
「言わない、言わない」
「訊かれたら?」
「そりゃ言うよねー」
肩を竦めた。わかりきっていた答えだった。大体、みのりに口止めなんてする方が無意味だ。
「んっふっふ、順風満帆、苦労知らずでここまで来た瑛士くんが、とうとう人生の壁にぶつかったかと思うと、……愉快」
「性格悪い発言」
「心外だなあ」
お赤飯の準備が必要になったら教えてね。そんなことをにやにや顔で言ってくる人間の、いったいどの辺りを見たら『心外』なんて言葉が捻る出せるのだか。性格、悪いでしょ。間違ってないでしょ。
古比奈なら「どっちもどっちだからね!」と声を荒げるのだろうけど。
顔を赤らめながらきゃんきゃん吠える古比奈の姿を想像しながら、みのりに向き直る。
「で、用事は何?」
「え? 顔を見に来ただけだよ~。新くんに頼まれて」
「……だと思った」
はあ、とため息を吐く。
「それなら、もう目的は果たしたでしょ」
さっさと帰れば。手をひらひら振ると、みのりは「はいはーい」と気の無い返事をして見事な回れ右を披露した。新至上主義のみのりからしたら、他の人間は、俺を含めて『新以外のその他大勢』でしかない。新の『お願い』を果たしたら、後はどうでもいいのだろう。
……朝から、疲れた。
「瑛士さま、パン食べますか~?」
どこからともなく、従者の――というか、監視役と呼んだ方が適切かもしれない――碓井研がぬっと姿を現した。両手には、まだほかほかと温かそうなホットドッグ。毎日のことながら、どこから調達してきているのだろうか。
遠慮なくホットドッグを頬張りながら席に向かう。鞄を机に下ろした時に、一瞬だけ古比奈がこちらに目を向けたが、視線が合う前にふっと逸らされる。横顔をじっと見ていると、徐々に身体が強張り始めた。おそらく、「なんで見てくるのよ!」とでも考えているのだろう。意地でも俺とは目を合わせないつもりらしい。
今話し掛けたら、怒るかな。
怒らせてみようかとも思ったが、タイミング悪くチャイムが鳴ったので、俺はパンを頬張ることに専念することにした。
教室に入ってきた教師は、ホームルームが始まったというのに飲食行為を続行している生徒を見、――しかしすぐに見て見ぬふりをした。いつものこと、というのもあるが、なにより俺の後ろにある『国永』という存在相手に下手を打ちたくないのだろう。教育者としてはいかがなものかと思うが、反面、仕方ないとも思うし、正直、有難いとも思う。古比奈に『秘密』を言いふらされてもどうってことはないが、教室で変身などしようものなら、大騒動だ。言い逃れのしようがない。……否。最悪、ばれたとしてもこの人数ならどうとでもやりようはあるが、……できれば、彼らに借りを作りたくはない。
口の中に残るマスタードのにおいを押し流すように、水筒を傾けた。水分が喉を通り、身体の奥へと落ちていく。この場合、不快感は洗い流されているのか、はたまた、自分の奥に溜まっているだけなのか、どちらだろうか。
空腹感が無い状態での食事は、美味しさを味わうという感覚は薄く、もはや義務に近い行為だ。
(その点でいくと……)
す、と視線をスライドさせて、隣の席でぴんと背筋を伸ばしている古比奈を横目で見やった。根が妙に真面目な彼女は、ただただ連絡事項を淡々と述べるだけの教師の話に真剣に耳を傾けていて、先程のように俺の視線には気付く素振りもなかった。
先ほどの気付かないフリとは違う。
いや、――それともあれらも、本質的には同じだろうか。
今朝も、昨日も、一昨日も、その前から、ずっと。
俺から話し掛けていなければ、たとえ隣の席だろうが、今日も、明日も、その先も、一生交わることのなかったであろう、近いけれど遠い距離。偶然同じ空間にいるだけで、互いが互いの、ただの背景でしかない距離。