(3)動揺被害
素直に殴られたらいいものの、彼は軽やかな身のこなしでひらりと後ろに下がり、私の渾身の一撃を難無く避けた。それがまた腹立たしさを増幅させる。
振り切った拳を手前に引き、私は全てを仕切り直すつもりで、肩に力を入れた。
「っ、とにかく! 私の話はひとつだけ。校舎裏で見たことや聞いたこと、他の人には言わないでよ!」
びしっと指を突きつけられた国永は、不思議そうに私を見ている。どうして公言してはいけないんだろう、と言いたげだった。……普段、あれだけ好き勝手に行動しているんだから、私の事情を慮るなんて無理か。
しばらく、小首を傾げて固まっていた国永だったが、ややあってぽんと手を付いた。
「わかった、黙っとく。パンツの件は特に」
「それは黙るより先に今すぐ忘れろ」
「大体、それ口にしたら、俺、変態扱いされそう」
「今私に向かってしてるのは良いわけ?」
「さて、俺、腹へったから帰る。屋上の鍵かけたいから、出てってくれる?」
総スルーの上に、自分勝手だ。彼を指し示す四字熟語に、『傍若無人』も追加した方が良いのではないか。容姿端麗、文武両道、傍若無人。意訳すると、『才能はあるけど、常識外れ』だ。
そんな相手に、比較的スムーズに話が済んだことに対して、人知れず安堵の息を零す。速やかに彼の前から立ち去ろうと、くるりと後ろを向き――
「あ、やっぱ待って」
呼び止められた。数秒、やっぱなんでもない、という言葉を期待して動かずにいたが、前言撤回は無いようだ。私は渋々、向き直る。
「なんでしょうか」
「口止め料が欲しい」
「……口止め料?」
嫌な響きだ。とても。いったいどんな要求が飛び出してくるやら、と戦々恐々と構える。私の警戒心など気にも留めず、彼は飄々と口を開く。
「古比奈、猫に餌やってるでしょ。グレーの猫」
「そ、それがどうかした?」
まさかそこまで見られていたとは。落ち着かなくて、手と手を擦り付ける。しかし、続いた言葉は私にとって予想外のものだった。
「あれ、肉もラインナップに加えてよ」
それがフードの種類の話だということを理解するのに、数秒を要した。だってまさか、そんな話題を吹っ掛けられるとは思ってもみなかったから。
「肉って、ビーフとか?」
「ささみとか」
すかさず付け加えられる。ささみ推しなのだろうか。ふうん、と首を捻る。
「私が通ってる店じゃ、あんまり売ってないんだけど。そもそもなんでそれがあんたに対する口止め料になるの」
国永も、私と同じ方向へ首を傾いだ。
「……いろいろあって?」
「…………」
さっきから、その言葉で全てを済まそうとしていないだろうか、こいつ。
「……ま、それで黙っててくれるなら良いわ。もう少し暑くなったら全部カリカリにするから、それまで適度に混ぜるようにする」
「えぇ、ドライになるの……?」
どうして国永が残念そうなのだろう。
ふんと鼻を鳴らす。
「その方が安上がりだしね」
「お嬢さまの割に、金銭感覚が庶民。さすがジャンクフード好き」
「うっさいわ!」
ぱちぱちと拍手されたが、間違ってもそれは称賛の意ではないだろう。むしろ真逆だ。つい足が出そうになったが、『パンツ見える』発言を思い出し、ぐぬぬと唸る。
「とにかく! 約束は守ってあげるから、あんたも守りなさいよ!」
「なんでそんなに上から目線」
呆れ顔に、あんたにだけは言われたくない、と思いつつ、私は黙って踵を返した。
――もういい。今日は帰る!
そういう気分の、はずだったのだが。
「にゃあ」
目の前で、猫が鳴いている。私は何故かまた秘密の裏庭に来ていた。
いや、何故か、というか。鞄の中に入ったままの猫缶のことを、偶々思い出しただけだ。あくまで偶々。偶然に。持って帰ったら、親に見つかってしまうかもしれない。だから、そう、証拠隠滅。それだけの意図であって、それ以上ではない。断じて、お腹が空いていないかなー、などと心配したわけではない。
こちらの葛藤などいざ知らず、ハイはするりと私の足に巻き付くように身体を擦り付けている。お尻を少し上げ、尻尾でしなを作っていて、悔しいことに大変愛らしい。今にもごろごろ言い出しそうなのに、残念ながら言わない。
グレーの猫は、私がこの場所に突っ立ってしばらくしてから、どこからともなく顔を出した。これもいつも通りだ。私がここに来たことが足音でわかるのだろうか。それともどこかから見ているのか?
見ている、といえば。
「……あいつ、いったいどこから……」
遠くからでも見つからない――それこそ、屋上からでもわからないような――陰になる場所を選んだはずなのに。いったいどこで、ここのことを知ったのだろう。甚だ疑問である。
(もしかしたら、今も見てるんじゃ)
きょろきょろと周囲を見渡すが、それらしい人影は見当たらなかった。
「いっ」直後、私は悲鳴を上げた。痺れを切らしたハイが、ふくらはぎに嚙みついて抗議行動を起こしたからだった。ばっと見下ろすと、犯人はすまし顔で座っている。
「あ、あんたね……」
両手を伸ばし、むにー、と左右に引っ張ってやった。おお、よく伸びるじゃないの。
もふもふな感覚につい感動しかけた自分を制する。これは、指導だ。可愛がりではない。だから、頬を緩めるわけにはいかない。触らせてくれる機会なんて数える程にしかないから、なるべく長く堪能しよう、などと思ってはいけない。
私は必死に目を吊り上げた。
「足を噛んじゃダメでしょっ」
当の猫はされるがまま、無反応である。反省の色は見られない。おそらく、このまま続けたところで同じだろう。
まったく、と私は息を吐いて、鞄から猫缶を取り出す。
「にゃあ」
ハイの目がきらきらと輝いた。ぱか、と蓋を開けると、濃い魚のにおいが広がる。堪らなく食欲を刺激されたらしい猫は、にゃあお、にゃおおん、と切なく鳴いて、足踏みした。今日はやけにお腹が空いているようだ。いつもよりも時間帯が遅い所為かもしれない。
悪いことをしたな、という気持ちと、やっぱり来て良かった、という気持ちが湧き上がる。
「ほら、食べな」
地面に置いた途端、ハイは猫缶をがつがつと食らい始めた。その様子を見守るように傍にしゃがみ込み、小刻みに上下する黒い模様の付いた頭を見下ろす。
「…………」
残さず食べているから、これで満足していると思っていた。
実は魚よりも肉の方が好きだったのだろうか。
むう、と唇を結ぶ。
真偽の程は、私には判断できない。もしかしたら深い意味なんて無かったのかもしれない。単に、「俺は猫のことも知ってるんだよ」と主張するために口にしただけかも。
あの顔は、そんなことを考えているようには見えなかったけれど。
「……肉系のご飯は、どこに売ってるかな」
普段行く店には置いていない。別の店で探さなくては。ぽつ、と呟くと、ハイは食べるのをやめて、ちらっと私を見上げた。肉という単語に反応したのだろうか。そんなまさか。猫と人間の間では、そこまで密なコミュニケーションは取れない。だから反応したように見えたのは、私の気のせいだ。
ぐるぐる、ぐるぐると思考が回る。回って、回って、元の場所へ戻る。
「しかしほんと、どこから見てんだろ」
再燃した疑問に答える者は、どこにもいない。
帰宅後も、私はいまいち平静を取り戻せないままでいた。
晩になり、その日の授業内容が一切思い出せないことに気付いた私は、やむなく復習しようとノートを開き、愕然とする。
ノートいっぱいに、ぶれっぶれの文字が広がっていた。