(4)自爆、のち捕縛
私の心を軽くしてくれるのは、現在、国永との接触が絶たれているという事実だった。国永から揶揄われることが無いのは確実だ。良かった。本当に良かった。この上国永と仲良くお喋りなんてしなくてはならない日には、私の心は恥辱で死んでいただろう。
そう思いながら教室の扉を潜る。珍しく、国永は席に着いていた。可能な限り視界へ入れないようにしながら、鞄を机に下ろす。
「はよ、古比奈」
「え?」
素っ頓狂な声を上げた私を、いったい誰が責められよう。昨日まで長いこと、挨拶すらろくに交わさなかったというのに、何故、今。よりにもよって、今朝。ぶるぶる震える私――多分、顔、赤い――を見て何を思ったのか、やつは私の顔を見てにやりと笑った。
せ、性格悪い! こんなやつと話せなくて寂しいとか思ってしまった昨日の私はやっぱりおかしかった。どうかしている、確実に。あれは夢だ、嘘だ、幻覚だ。
「古比奈? おはようございます」
……なかったことにするつもりがないらしい。拒否すればエンドレスになる予感がした。
「おはよう、ございます、国永さま……」
絶望的な気分で、泣く泣く挨拶を返すはめになった。
「体調はよくなった?」
「はい、おかげさまで……」
誠に残念ながら。
「ならよかった。さすがの回復力だね」
「はい……」
本当に残念ながら。
「でも俺のおかげでもあるよね」
「は、い……」
非常に不本意ながら。
「何か言うことは?」
にっこり笑った顔が、憎い。
「……ありがとう、ございます……」
お礼って、こんな風に強制して言わせるものではないと思うのですが。
か細い返事を繰り返している間に、廊下から「瑛士くーん!」と彼を呼ぶ声がした。よかった、国枝は健在だ。お願いだからそのまま連れていって戻ってこないで。
国永が視界から完全に消えたことを確認して、私はぺったりと机に突っ伏した。ここが家なら、今頃朝の発作が再発していただろう。
「おはよう、結海さん」
弾かれたように飛び起き、居住まいを正した。私はお嬢さまで、ここは学校だ。私が机に突っ伏すなんて、絶対、だめ。私は、にこーっとした笑みを作り上げた。
「おはようございます、橋渡さま。昨日はお見苦しい姿をお見せして、申し訳ございません。ありがとうございました」
「ああ、いや……」
やけに歯切れが悪い。どうかしたのか、と目を向けると、彼は男前な顔を、非常に情けなさそうに歪めて立っていた。
「あの、さぁ……結海さん、今って時間ある?」
「今、ですか?」
きょとり、と目を瞬かせ、教室の壁時計で時間をチェックする。
「朝のホームルームまで、あまり時間がありませんので……」
「じゃ、じゃあ、昼休みとか!」
「ええ、それでしたら」
言葉をぶつりと切った。昼休み。夏休みに入る前、つまりは橋渡と国枝が転校する前までは、国永に拉致されていた時間だ。朝、挨拶があった。もしかしたら、昼もお誘い(という名の強制イベント)があるかもしれない。いや確定ではない。確定ではないのだが、しかし万が一ということもある。
私はお嬢さまという仮面を忘れ、橋渡の手をがっしりと力強く握った。
「まるっと空いておりますので、ぜひとも、必ず、ご一緒させてくださいませ」
「お、おぉ……? あ、えっと、それなら良かっ、た……?」
胡散くさい橋渡よりも、国永と昼を一緒にする方が数百倍嫌だ。
橋渡が私の迫り具合に引き攣った顔をしていたような気がしたが、今の私にはそれすら気にしている余裕は無かった。だって生死がかかった大問題なんだもの、これ。
昼休みのチャイムが鳴り響くと同時に、私はすぐに橋渡のもとへ向かった。
「さあ、参りましょう! 早急に!」
「う、うん……」
引き気味に頷いてから、橋渡はちらりと視線を私の後方へと動かした。その先にいる人物が誰であるのか、私は知っている。だからこそ、急いでいる。はやく、はやく、と急かしながら教室のドアを潜った先に、十中八九国永を誘いに来たと思われる国枝を発見した。彼女は教室から飛び出してきた人間を前に、大きな目をますます大きく見張って、きょとんとしている。が、その人間が私たちだと気付いた瞬間、可愛らしい花が咲くようにふんわりと破顔した。……ん? 破顔?
「結海ちゃ~ん」
結海ちゃん!? 私はあなたとそんな間柄になった覚えがありませんが何故そんなにも親しげに……いや、今はそれどころではない。呼び方なんてどうでもいい。いつもと異なる態度であることもこの際捨て置く。
「国枝さまごきげんよう国永さまなら教室におりますわどうぞお二人で仲睦まじくお食事とご歓談をお楽しみくださいませ!」
ワンプレスで言い切ると、脱兎の如くその場を去った。
「……全力疾走って、大丈夫なの。いろんな意味で。あと、顔、青いよ」
「だ、大丈夫、です、わぁ……」
「うーん、大丈夫そうに見えない」
肩で息をする私の傍らで、涼しい顔をした橋渡が肩を竦めた。
しばらくしてようやく息が整った私は、彼に向き直る。
「それで、話といいますのは?」
「ああ……」
それまで普通の顔色だった橋渡は、急に顔を曇らせた。
「その、今更だけど、昨日のこと、改めて謝りたくて」
「昨日?」
私、この人に何かされたっけ?……駄目だ、昨日の失態が真っ先に出っ張ってきてしまう所為で、他のことすら直視できない。
「まさか本当に体調が悪いとは思わなくて」
「……あぁ」
何かと思ったら、そのことか。
「いえ、お気になさらず。わたくしも、まさか、と思ったくらいですもの」
まさか私、熱があったなんて。
国永はどうやら、気付いていたらしい。熱を測る前から病人扱いだったくらいだ。
あれは気付かない方が普通だ。うんうん、と頷いた後に、待てよ、と首を捻った。まさか本当に……ということは、やはりあれらは方便だったということだ。あの現場を目撃させるための。
ぽん、と手を打った私を見て、橋渡は私が状況を理解したことを察したらしい。
「あの、怒ってる、よね?」
「怒っているというよりも、恨んでおります。心から」
「そう、だよね」
「国永……さま、に、アレさえ聞かれなければ、私は今日も心穏やかに過ごせていたはずなのに……!」
「……んん?」
橋渡は、握り拳を震わせる私を不審そうに見下ろした。またも羞恥心に囚われていた私は、遅れてその存在を思い出し、「なんでもありませんわ」と慌てて言い繕った。
「前から気になってたんだけど、結海さんは気にならないの?」
「何がでしょうか?」
主語の無い問い掛けに、眉を寄せる。橋渡も困惑を隠さず表情に出していた。何ってアレしかないでしょ、と言いたげだ。でも、自分がアレが気になっているからというだけの理由で、他人も当然ソレが気になっているだろうと思い込むのは、よくないと思う。
で、アレとは?
「国永くんが、国枝さんといつも一緒にいることとか、なんだけど」
ソレか。
「むしろ今日以降は積極的に推奨する方向で進もうと思っておりますわ」
きりっとした顔を作ると、橋渡はまた押し黙った後で、静かに問うた。
「付き合ってるんだよね?」
「…………………え?」
「え?」
予想外の発言にきょとんとすると、相手もまたきょとんとした顔をした。
「あ。え、ええ、ま、まあ、そう……かも、しれない……でしょうか」
「付き合ってるのに、気にならないの? 推奨しちゃうの?」
「え、え~……っと」
この場合、なんて返すのが正解なのだろうか。冷や汗を掻きながら、私はうようよと目を泳がせた。ともすれば真っ白になりかける思考回路をなんとか繋ぎ合わせ、散々悩み抜いて、ぱっと降りてきたのが、お嬢さまがたの言葉だった。最近は特に耳にタコができる程に聞いていたので、余計に記憶に残っていたのだ。
――後々、この時点で交際自体を否定しておくのが最善だった、と悔いることになるのだが――。
「あの、……そ、その程度のことで崩れるような脆い関係ではありません、ので。わたくし、国永さまのことを心よりお慕いし、彼が不貞を働くようなことはないと信じておりますから」
清廉さを主張しようと、胸の前で祈るように手を組んでみる。
ちら、と橋渡を見る。彼はまだ疑いを消せずにいるらしかった。私は慌てて「それに!」と言葉を繋げる。仲良しアピールをしなければ。ええっと、仲が良いから知っていること、仲が良いから――ピン、と閃いた。
「どう考えてもあの面倒くさがりと揶揄い好きが同居しているような国永さまが、自ら率先して誰かのために学校を案内したりあんな風に庭を歩いたりするなんておかしいです。何か事情がなければ絶対になさいませんもの!」
だから私は別に、あの二人が一緒にいることに対してはモヤッとはしていなかったのだ、ただ一応契約関係でそれなりに一緒に過ごしたつもりでいたのに、それなのに一言も無いまま一方的に関係を断たれたから、さみし――否、それは契約的にいかがなものか、と思っただけで。
「付き合って、るんだよね……?」
「…………………あ。は、はい。そう、かも?」
回答を間違えた気がする。疑いの眼差しが深まった橋渡を前にたじろぐ。
「俺、あの二人がどういう関係なのか、事情を知ってるんだけど、罪滅ぼしも兼ねて教えてあげようかなって思ってたんだけど」
「結構です。今はまずあの方の情報はひとつも手元に集めたくありません」
反射的にばっさりと断ってしまった。……だって、今の私が国永の情報を手に入れたら、全てが昨日のアレに繋がりそうで……とてもじゃないが、心臓が持たない。
「――それに」
ふう、と息を吐いた。
「もし知りたいなら、あなたでも、他の誰でもなく、国永さま本人に直接聞きますわ」
「そういうわけだから、気を遣って余計なことは言わなくていいよ」
「…………ん?」
待って。この声は。
サア、と青褪めた私の上に、ぽすん、と大きな掌が乗っかった。ただ乗せただけ、でもなくて、撫でるため、などでも当然なくて、ひとえに私を捕獲するための手だ。
じゃなきゃ指先にこんなに力が入るものか。
「古比奈、俺ね、今日、昼に誘おうと思っていたんだけど」
「お気遣いなく。国枝さまとどうぞご一緒に」
「……そうだよね。俺たち、その程度のことで崩れる脆い関係じゃないんだもんね」
「どっ」
どこから聞いてたの……? 心臓がばくばくいっている。間違ってもトキメキなんてものではない。ただの恐怖だ。
「でも一緒に食べたい気持ちも当然あるよね。だって心から慕ってくれてるわけだし」
「それは――」
無理やり捻り出した方便だって知っているくせに、どうして引き合いに出してくるかなあ!?
言い返したいことはいろいろあるが、今この場にいるのは国永と私の二人だけではない。助けを求めるように橋渡を見ると、彼はにっこり笑ってから、そっと目を逸らした。……なんだろう。今、見捨てられた気がする。
「じゃあ」
頭にがっちり嵌っていた手が外れて、首に回る。
「連れてくけど、良いよね」
そう言って国永が見たのは、橋渡だった。
「あ、どうぞどうぞ。俺の用事は終わったし」
ちょっと、そんな簡単に人を売らないでよ!
そもそも論として、私を連れて行く許可を出す権限は橋渡には無い。それは私自身にあって然るべきものだ。その点については誰も何も疑問に思わないの?
確かに、国永に言い返したいことはたくさんある。が、二人きりになる勇気は、はっきり言って、無い。
私は国永の腕からするりと抜け出て、咄嗟に橋渡の服の裾を掴み、そのまま盾にした。
「お……お昼を一緒に食べる約束をしておりまして! 先の約束を守るのが、人としての筋かと!」
人の影から隠れて意見を飛ばす行為は恥ずべきことではあるが、今は仕方がないと思う。だって国永、なんか怖いし。
「結海さんやめてちょっと今俺をこの空気に巻き込まないで。きみの彼氏めっちゃ凄んでんだけど」
「橋渡さま」
ぽん、と背中を叩く。
「わたくしに、謝罪の気持ちがおありなのですよね?」
ならばやることはひとつである。……あとこれが最も大事なことなのだが、国永は断じて私の彼氏ではない。
はあ、と橋渡が大きなため息を吐いた。
「なんできみまで俺を脅すかなあ……」
「この危機を回避できるのであれば、利用できるものは利用する所存です」
真顔で言い切れば、どこからともなく「同感!」と明るい声が響いた。
「その心意気、とっても大事だと思う!」
ばばーん、と効果音が付きそうな勢いで、国枝が出現した。仁王立ちで。そして顔には不敵な笑みを浮かべている。……今、国永との血縁を確信した。
むくむくと湧き上がる嫌な予感がピークに達した時、「そういうことなら、この国枝みのり、一肌脱ぎましょう!」と彼女はさながら名探偵を気取るかのように顎に手を当てた。あれ、この人ってこんな人だったかな……。私に敵愾心を抱いていたのではなかったのかな……。
「テストも無事に終わったから、新くんの特別ランチにみーんなまとめてご招待しちゃうよ! どう? これなら結海ちゃんと橋渡くんの約束も守れて、瑛士くんも結海ちゃんとご飯を食べれて、更にはあたしも新くんに褒められる! その上、午後の授業は合法的に出なくてオッケー!」
「みのり、知ってると思うけど、新の言うことは法律でもなんでもないから。合法じゃないからね。あと俺、新に会うの嫌」
「え~、嫌? でも無理強いはできないもんね……。仕方ないなあ、新くんをここに呼ぶことにするね」
「…………」
国永が苦悶の表情を浮かべた。国永がこんな顔するなんて、アラタさん……誰だろう。
国永は苦悩の末、携帯を素早く操作して耳に当てていた国枝の腕を掴んだ。
「…………行く」
「はあーい。じゃあ、四人ね。あ、碓井くん入れたら五人か」
「僕のことはお構いなくー。みなさん、気付いてませんから」
びく、と身体を震わせた。碓井研――国永の従者である。が、影が薄すぎて、いるのかいないのか、すぐにわからない。いつからか……おそらく最初からだろうけれど、この場に居合わせていたらしい。
「それに僕、ただの付き人ですし」
「いやいや、ご飯は食べなきゃだよ。ご飯食べさせないって、ブラック中のブラックになっちゃうよ、うち」
「あははー、そうですねー。じゃあ遠慮なく同席させてもらいますー」
そんな会話をしている間に、国枝の電話は相手に繋がったようだ。一言、二言言葉を交わすと、彼女は電話を切った。
「じゃ、行こうか」
晴れ晴れとした笑顔を浮かべ、彼女は軽い足取りで歩いていく。呆然とする私の手から自身の服の裾を取り返した橋渡も、やれやれとばかりに頭を掻きながら、後へ続く。碓井は軽く手を挙げ、「僕も行きますね~」と宣言した。
残された私は、ふと我に返ると同時に、これなら逃げられるんじゃない、という悪魔の囁きを聞いた。そうかもしれない、と一瞬勇気づけられたが、悪魔の手を取るよりも先に、自分の手を掴まれた。指と指が絡まって、身体ごと引き寄せられる。
「国永っ、これ、これ……っ」
なにこれ! 振りほどこうとぶんぶん振るが、そうはさせるか、とばかりに、更に力強く握られた。しかしここで諦めたら負けだ。
「寂しくないように、ね」
にやり、と国永が笑う。
「――――――――っ、馬鹿あ!!」
私の叫びが、空しく響いた。