(1)夏休みが明け、幕は開く
古比奈結海は、お嬢さまである。……少なくとも、世間一般では、そういうことになっている。自分で言うのもアレだが、外見は繕っているものの、中身はそれに伴っていないと思う。ジャンクフードが大好物だし、本当のところお淑やかとは程遠い性格をしているし……。
私自身が『そう』であることを知っているのは、今のところ、私以外ではたったの一人だけ。いつもは完璧なお嬢さまの仮面を被って生活している。
そのたったの一人というのが、同じクラスの国永瑛士だ。容姿端麗、文武両道……天は二物を与え給うた、をまさに地で行く人物。それでいて、性格は史上最悪だ。人のことを散々揶揄って遊ぶし――
『古比奈のそれは、俺だからじゃないでしょ』
「…………」
揶揄うにしてはやけに真剣な眼差しで、人の心を無闇に搔き乱すようなことを、さらっと言ってくるし……。
(――あーっ、もう、考えない!)
私はふるふると頭を横に振って、余計な考えを頭から振り落とした。あれだってきっと、私をあたふたさせるために編み出した作戦に違いない。そうとわかっていて、乗って堪るか!
しかして、そんな国永にも秘密がある。それは『空腹感を覚えると猫になってしまう』ということ。なんというファンタジック要素。本当に? と疑う人がほとんどだろう。私だって彼が変化する様を目の当たりにしなければ、信じられない。
お互いの秘密を握り合っている私たちは、互いを監視するべく、大変不本意ながら、偽装交際をしている。私にとってはデメリット――というか将来に関わるリスク――と、秘密保持契約というメリットがある。国永にとっても秘密を隠せるというメリットがあるはず……なのだが、何故だか私が一方的に弱みを握られているかのような様相を呈していることが、解せない。
私は表面上は穏やかに、嫋やかに、自身の持ち込んだ荷物を整理しながら、内面ではひどく憤慨していた。おおよそ一か月ぶりの教室には、もうかなりの生徒が登校しており、友人とのお喋りに花を咲かせているが、私の隣の席の男子生徒――要は国永のことなのだが――は未だに現れない。
夏休みに友人の大咲志乃の父親が主催するパーティーに参加して以来、国永とは顔を合わせていない。……別に、寂しくもなんともなかったけれど。用事も無いのにわざわざ連絡を取り合う仲でもない上に、そもそも連絡先すら知らない。だから、仮に連絡しようとしたって、掛けられなかったのだが。……繰り返すが、私は、連絡を取りたいと思ったことは、無い。断じて、無い。無いったら無い。
無い、無い、と心の中で何度も唱えていると、横から、とさっ、と物を降ろす音が微かに聞こえた。
「…………」
ちら、と横目で様子を窺うと、案の定そこには国永の姿があった。
手にはフライドポテトがぎゅうぎゅうに詰まった袋を持っている。……あ、あれは、私が一度も行ったことがない、いつか行きたいと思っている、大手ファーストフード店のロゴ……!
おのれ国永め、と見当違いの怒りを膨らませていると、こちらに視線を動かした国永とばっちり目が合った。
「おはよ、古比奈」
「……おはようございます、国永さま」
渋々挨拶を返すと、国永はふっと口元を緩めた。
「どうしたの、俺のこと見てたけど」
見ていたのは、手元のポテトであって、貴方ではない。
……などと、言えるはずもなく。
私は無理やり目を丸くさせて、ぽかんとした表情を繕った。
「そうでした? 気のせいではないかしら」
「ふーん? じゃあ、無意識に目で追ってたってことかな」
そんなことあるわけないでしょー!
……と叫ぶことも、当然の如く、できず。
私はお上品に口元に手を当て、「ほほほ、わたくし、そんなこと致しませんわ、ほほほほ」と全力で否定した。会話に聞き耳を立てていたクラスメイトのお嬢さまがたが、
「一か月ぶりのお二人の姿、やっぱり目の保養になりますわ~」
「相変わらず仲がよろしいこと」
「国永さま、もう一押しですわよ!」
などと興奮して頬を染めている。まるで見世物だ。本当に違うのに。
しかし何故だろう、私の中に「懐かしいなあ。これぞ学校、という感じだなあ」などと笑う者がいる。認めるのは癪なので、断固、見ないふりを貫くけれど。
それでも、どうしてか、自分が確かに少し、以前とは違う心持ちであるような気もして。
そんな曖昧な変化を前にして、しかし、それでも私は、夏休みが明けたところで何も変わらない、変わるはずがない、と自分に言い聞かせていた。
「二学期に入るにあたり、みなさんにご紹介したい人がいます」
それは、こんな言葉から打ち砕かれることになるのだが。
何かしら、どなたかしら、と騒めく教室を意図的に無視した教師は、ドアの方へ「どうぞ」と声を掛けた。からら、と軽い音を立てて開くドア。その奥から登場した顔に、私は思わず「あ」と小さく声を上げた。
騒がしい教室の中、まさかその小さな声に反応できたはずはあるまいが、偶然か必然か、『彼』は私のいる辺りへ視線を向けると、密かに目を細めた。
至って堂々とした足取りで教卓の横に立つ。そうして見ると、彼の背の高さが際立った。何しろ、教壇に上がっている教師の背を追い抜かさんばかりなので。
あの日見た整った顔をくしゃりと崩すと、人懐こそうな色が現れた。
「はじめまして。橋渡友仁です。よろしくお願いします」
日本名なのか。意外な気持ちで聞き流していると、周囲が俄かに騒めいた。主に「橋渡って誰だ」という内容だ。一応表面上は「身分など関係無しの友情を築くこと」となっている我が校であるが、内面までさすがにそれ一色に染めることはできない。どうしたって親の立場が子に影響することもあるし、逆もまた然り。そんなわけで、彼がいったいどこの誰で、誰のどういう繋がりでここにいるのか、というのは極めて大事なことなのである。
志乃の父親のパーティーに呼ばれていたということは、それなりの立場なのだろうけど。
橋渡、ねえ。……聞いたことないなあ。
うーん、と首を捻る私は、この時、まだ余裕だった。というか、ほぼほぼ自分には関係の無いことだという認識だった。
朝のホームルームは基本机に突っ伏している国永が、やけにじいっと橋渡を見ていたことにだって、気付いていなかった。
「とても綺麗な髪の色をしていますのね」
「そうかな? ありがとう」
「橋渡さまは、どちらのご出身なの?」
「日本生まれの日本育ちだよ。父がイギリス人なんだ」
……囲まれてるなあ。
私は教室の前方へ目を向けながら、お祭りさながらの群がりように苦笑した。この学校で転校生というのは珍しいので、みんな気分が高揚しているのだろう。夏休み明けだという特別感も関係しているのかもしれない。見目も麗しいので余計に、だろうか。
「どうして、この学校に?」
「それは……」
それまですらすらと喋っていた橋渡が、突然黙った。周囲に対して惜しみなく振りまいていた笑顔を陰らせ、彼は意味ありげに目を伏せた。
「少し、ね」
訊いてくれるな、ということを前面に押し出してアピールしている。
「胡散くさ……」
隣から、ぼそ、と声が聞こえた。私は思わず国永の顔を見やった。机に頬杖をつきながら、いつも通りのものぐさな様子でいる。しかしその眼光は、思いのほか鋭かった。基本的に怠惰な態度でいる国永ではあるが、このように誰かのことを否定的に話すことはこれまで無かったように思う。とはいえ別に長い付き合いでもない。意外か、と問われると、自信が無い。
ただ少なくとも、私の知る国永とは違う気配を感じた。
……思えばパーティーの翌日も、やけに彼に突っかかっていたし。
(何か気になることでもあるのかな)
たかだかあの短期間と、この短時間の間に? それで何がわかるっていうのだろう。動物の勘?
じ、と橋渡を見てみるが、生憎と私の勘が働くことはなかった。
見られていることに気付いたのだろうか。不意に橋渡がこちらを見て、視線が重なった。すると彼は周囲に断りを入れ、軽い足取りで私の席までやってくる。
「久し振り。また会えて嬉しいよ」
「ええ、お久し振りですわね」
まさかこんなすぐに再会することになろうとは、夢にも思わなかった。私は動揺をひた隠しにして対応する。
「彼氏さんも」
「……どうも」
「ここでも仲良しなんだね」
「そう見えるなら、そうなんじゃない」
……何故だろう。やけに陰険だ。
漂ってくる異様に冷たい空気に、ぶるりと身体を震わせた。
「あ、そうだ。転校生といえば」
ぽん、と橋渡が手を打った。今思い出した、と言わんばかりのジェスチャーだが、どことなく嘘くさい。まるで……
「俺以外にももう一人、転校生がいるらしいよ。別のクラスで。国枝みのりさん、だったかな。きみの従姉妹なんだってね」
――まるで最初から、それが国永にダメージを与えると知っているかのような。
がた、と机が揺れた。私のものではない。国永の。
「国永さま?」
呼び掛けに応えようとしたのだろうか。ぴくん、と身体が反応し、しかし彼は絶対にこちらを見なかった。国永さま、ともう一度呼び掛けた声を掻き消し、「瑛士く~ん!!」と教室じゅうに女の子の声が響いた。私の声どころか、周囲の音全てを飲み込んだ声の持ち主は、教室の入り口で満面の笑みを浮かべながら、こちらに向かって手を振っている。ぶんぶんと。……私の知るお嬢さま像とは大きくかけ離れた所作である。
「……みのり」
「え?」
あの人が、さっき話題に上った、国永の従姉妹?
確かに、周囲のことを一切気にしない奔放さは、国永に通ずる部分が……。
彼女はまるで飼い主を見つけた犬の如き速さで国永に駆け寄ると、にこおおおっと笑った。
そんな彼女をあしらうように、国永は顔を歪め、身を引く。
「どうしてここに」
その質問の意図は、「どうして転校してきたのか」だったのか、それとも「どうして別のクラスにまでわざわざ来たのか」だったのか。どちらにせよ、彼女の答えは明快だった。
「だって瑛士くんに会いたくって」
言いながら、彼女は素早く国永の腕に巻き付いた。子犬がじゃれるように自然に、無垢に。それでいて、無垢さとはかけ離れた意味ありげな一瞥を、私へ向かって寄越しながら。
勢いに呑まれて一歩も動けない私を嘲笑うように口元を持ち上げた彼女は、すぐに表情を柔らかく甘いものへ変えて国永を見上げた。
「ね、瑛士くん、あたしまだあんまり学校のことわかってないんだよね。案内してよ」
「なんで俺が? 同じクラスの人に頼んだらいいのに」
「他の人じゃやだ」
瞬時に口を尖らせた彼女は、国永の腕をぐいっと引っ張った。
「ね、行こ? それとも――」
その続きは、聞こえなかった。彼女は国永にだけ聞こえるように、彼の耳元で囁いたから。私は、その瞬間に国永の表情が変わる様を、ただ見ていた。何かを言いたげに、彼女を見下ろし、そしてその後に諦めたように肩を竦めた国永を、ただ見ているだけだった。
――結局、私とは一度も目を合わすことがないまま。
「あーあ、行っちゃったね、瑛士くん」
残念だったね、と続いた言葉に、私は微かに眉を寄せた。
残念? 何が? 誰が、誰に対して、何を?
私が橋渡を見た時、彼は笑っていた。目の前で繰り広げられた見知らぬ人による寸劇が、まるで何も無かったかのように、無邪気な笑顔を浮かべていた。
今のはいったいなんだという動揺で、しんと静まり返った教室で、ただ一人。
『胡散くさ……』
なるほど。と私は納得した。
橋渡友仁は、胡散くさい。