(6)謝罪と威嚇
彼が去っても、手が解放されることはなく。気まずい無言が私たちを支配していた。
しばらくしてから、ようやく国永は手を離した。
「……ごめん」
突然の謝罪に、ぱちり、と目を瞬かせる。ええっと、それは何に対する謝罪なの? 先程の化けた発言? 手のこと? それとも、それとは違う……何か?
平素ならば私の表情から私の困惑を、いっそ必要以上に読み取ってくる国永は、しかし今回はその能力を発揮することがないまま、言葉を連ねていく。
「傷つけるつもりはなくて、でも言葉が悪かった。雰囲気違ったから、びっくりして、つい。すぐに悪いとは思ったんだ、ただ、……ああ、もう、なんだこれ。下手くそな言い訳だな、これじゃ」
下がった眉尻。赤い耳の先。恥を隠すようにくにゃりと歪んだ口元。それらを順番に追いながら、私はゆっくり国永と視線を合わせる。
「あと、なんで俺ばっかり、ていうのも正直あった。昨日の風呂上がりも、今日の格好も。俺ばっか気にしてる気がする」
それはちょっと聞き捨てならない発言だ。
「私も今回、相当恥ずかしい思いをしたと思うんだけど。誰かさんが揶揄い倒すとかいうから」間接キスとか、その他諸々、たくさん。
唇を尖らせる私に対して、国永が目を細めた。どこか仄暗い熱のこもった双眸に、心臓の音が大きく鳴る。
「でも、古比奈のそれは、俺だからじゃないでしょ」
その瞬間、言葉の真意を確かめるよりも早く、僅かに私は息を呑んで。
それから、咄嗟に首を横に振った。
「……そんなの、わかんない」
否定か、肯定か。前向きか、後ろ向きか。何の意味が含まれているのか、自分でも判然としないまま零れた言葉だった。
「――腹立つなあ」
「え、これ国永の謝罪タイムじゃないの?」
「ああ、そうだったね」
しれっと言い放った国永の瞳からは、先程の熱はもう見えない。私はこっそりと息を吐いた。
「じゃあ、仲直り、してくれる?」
すっと真っ直ぐに差し出された手を、見る。
「……仕方ありませんね。仲直りしましょう」
意識して気取った声を出し、その手を握った。
彼の指先は冷たかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
パーティーの翌日。朝のことである。
にゃあ、と。ドアの前で、猫が鳴いた。
次いでかたかたと音がした。ドアを叩くかのような音。
「ハイ?」
がちゃり、と扉を開けると、案の定、頭にインクを零したような黒い模様があるグレーの猫が座っていた。
彼は私の姿を視認すると、くるりと踵を返した。途中で立ち止まり、尻尾を一度大きく振る。……これは、お散歩に誘われている、のかな。
誘いに乗って後をついて歩く。庭園を抜け、更に外へ。どこまで行くのだろう、と思ったら、浜辺に出た。早朝なこともあり、人影は無い。
――まさか砂浜を駆け抜けるつもりじゃないでしょうね。言っておくが、私は国永に追い付ける自信は無い。転ぶ自信はあるけど。……あれ? 志乃の妄想は、配役が逆だっけ?
どちらにせよ、する気はない!
ないんだからね、という目でハイを見ると、当の猫は「どうしてこの人は睨んでくるのだろう」と不思議がっているように、ぱち、と瞬きをした。
……一人空回りして、恥ずかしい。やっぱり、どう考えても国永よりも私の方が、余程恥ずかしい思いをしているような気がするのですけど?
うー、と唸る私を置いて、ハイは浜と道を区切る石の上にちょこんと座った。それから顔だけを巡らせて私を見ると、にゃあ、と鳴く。
「……座れってこと?」
「にゃ!」
どうやら合っているらしい。尻尾を踏まないように、気を付けながら横に並ぶ。
昼間と違い、朝は風も少しだけ涼しい。夜の間に冷えた石の感触を感じ取りながら、光っているように見える水平線を臨む。
ごろごろ……、とまるでエンジンを吹かすような音が真横から聞こえる。見ると、ハイが喉を鳴らしながら、頭をぐりぐりと私の腕に擦り付けている真っ最中だった。
「今は餌は持ってないよ」
「ぐる……」
今度は間違ったらしい。ハイは不満を表すように甘噛みを繰り出した。甘噛みとはいえ、先端が尖った牙は痛い。いや、マジで痛いから、いたたたた!?
「痛いよ!」
思わず叫ぶと、ようやく攻撃は治まった。な、なんだったの……。噛まれたところを摩っていると、また頭ぐりぐりが再開された。合間合間にちらっと私を見上げてくる真意はいったい――
(……………………だっこしても良い、とか)
いや、さすがにそれは無いな。……え、ある? もしかして、あったりする?
そうっと手を近付けてみる。どうやら逃げたりはしないらしい。頬をこしこし擦ると、気持ちよさそうに目を細めた。可愛い。中身が国永だっていうのは、いったん忘れよう。今はもふもふを堪能することが第一!
頬をもふもふしてから、今度は脇の下に手を伸ばす。逃げられたらどうしよう、というどきどきは杞憂に終わり、私の両手に、もっふりとした毛と、夏の熱とは違う心地よい温度が伝わる。持ち上げると、案外、ずっしりとしていた。
にょーん、と伸びる胴体。いつも違って、ちょっと間抜けに見える。
「は……ハイ可愛い~っ!!」
思わず叫びながら、お腹にモフッと顔を埋めると、肉球が頭に押し付けられた。
「にゃ!」抗議の声だ。
いい加減にしろ、調子に乗るな、ということだろうか。……さもありなん。そう言われても仕方がないことをしたばかりだ。だが、悔いはない。やはりモフ成分は不可欠だ。でもさすがに後ろ足で蹴りを入れられそうだから、そろそろやめよう。
膝の上に下ろすと、予想外にじっとしている。今日はやけに大人しい。あれかな、謝罪の気持ちかな……。
頭の上から、尻尾のあたりまでを何度も手を流す。予想以上に柔らかい毛は気持ちよくて、許される限りいつまででも撫でていられる気がした。
「あれ、昨日の……」
「ひゃあ!」
完全に油断していた。慌てて振り向くと、昨日、ウッドデッキで会った彼が立っていた。手にはキャリーバックが握られている。
いったいいつからそこに。ハイ相手に興奮しているところ、見られていないと良いのだけれど。完全に仮面、外れていた。
「さ、昨日は大変失礼致しました。今からご出立ですか?」
「うん、そうなんだ。昨日の海が綺麗だったから、最後にもう一度見たくなって。でもきみにも会えるなんて、ラッキーだなぁ」
じゃり、と砂を踏む音がした。次の瞬間、私の膝から飛び出したハイが、「シャーッ!!」と威嚇した。うわあ威嚇って初めて見た、……じゃ、なくて!
「すみませ、ちょ、くに、……ハイ!?」
何してるの、と後ろから引っ掴むと、更に毛がぶわりと広がった。一瞬飛び跳ねたハイが振り向きざまに私に向かって手を振り上げ、しかし思い直したようにやめる。
「あはは、猫っぽいなー。そう何度も牽制しなくたって、大丈夫だって。お嬢さんも気を付けた方が良いよ、気の立ってる猫に不用意に触ると、引っ掻かれるから」
言いながら、彼は腕時計で時間を確認し、「残念、もう少し話したかったんだけど、時間だ」と苦笑した。キャリーバックの持ち手を握り直すと、彼は片手を軽く上げた。
「それじゃ、またね」
「え? あ、はい、また」
また会う機会なんて、余程来ないだろうけど。よくある社交辞令……にしては、どことなく違和感があった。とはいえ、考えても答えが出ないことを気にしていても仕方がない。私は彼に対する思考を閉ざした。
彼の後ろ姿が完全に消え去ってから、国永に向き直る。
「こら、喧嘩禁止!」
叱ると、グレーの猫は不満げに、ぐるう、と低い声で一鳴きした。
あ、初めて聞く鳴き方だ。……いや、いやいやいや。そうではなく。
――鳴けばなんでも許されると思ったら、大間違いなんだからね!
私が再度怒ると、ハイは今度は完璧に猫のフリをして、人間の言葉なんてわかりませんよ、とばかりに首を傾げて「にゃあ」と甘え声で鳴いた。
はあ、とため息を吐きながら空を仰ぐ。そこには飛行機雲が真っ直ぐに伸びている。
異国の地での怒涛の数日間が、ようやく終わりを迎えようとしていた。
……たったの三日ばかりなのに、厳密には滞在時間はもっとずっと短いのに、なんだろう、この疲労困憊っぷりは。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「――あ、ご無沙汰してまーす、……って程でもないか」
気安い言葉を投げかけながら、男は空港の椅子に凭れ掛かる。きし、と高い音が鳴る。それは明るさの隙間に潜り込み、不気味に響く。
「ああ、うん、会ったよ。ばっちり。あんたが危惧してた通りだった。あれは惚れてるね」
俺の目に狂いはない、と胸を張る。腹の探り合いは得意分野だ、と肩を揺らして笑いながら。
「で、この後はどうしてほしい?」
彼は軽く目を瞑り、電話の相手の言葉を聞き逃さないように息を止めた。全てを聞き終わってから、薄っすらと目を開く。
「仰せのままに」
静かな返事に、空港のアナウンスが覆い被さった。
「お、搭乗の時間だ。んじゃ、いったん切るよ。――また日本で」