(2)平常心を保てない
「はよ、古比奈」
「……おはようございます、国永さま」
相変わらずの挨拶攻撃が続いている。いい加減にして欲しい。
思わず鞄を机に叩き付けたくなる衝動を堪え、私はお淑やかに着席した。
彼は普段と変わらず、むぐむぐとパンを食べていた。今日はハンバーガー型らしい。中にチキンが挟んである。
「そういえば、古比奈」
「……なんでございましょう」
挨拶の後に話し掛けられるのは初めてだった。驚きで言葉を詰まらせてしまったが、動揺を悟られるのが癪で、あくまで平常心の振りをして、微笑みを浮かべてみせた。――結果的にそれが後々、周囲から「なんて自然体なのでしょう」「やはり普段からお付き合いがおありですのね」などとあらぬ誤解を受ける原因となることを、当然この時の私は知る由もなかった。知っていたら、恥を捨てて盛大に動揺したのに。なんたる失態――。
いや、しかしこの時、そんなことを考える余裕を宇宙の彼方まで吹っ飛ばすような、衝撃的な事件が起こったのだ。
「いくら誰も見てないからって、スカートであぐら掻くのはやめた方が良いと思う」
私は固まった。氷像の如く、かっちんこっちんに。数秒間は心臓も止まっていたものと思われる。
「あと、お菓子――」
「国永っ!……さま!」
私は一瞬、お嬢さまの仮面をかなぐり捨てて素早く身を乗り出すと、彼の腕をがっしり掴んだ。
クラスメイトが何事かと私たちに注目している。我に返った私は、鬼の形相を引っ込めて、にこやかに微笑んだ……つもりだったが、もしかしたら口元が引き攣っていたかもしれない。
「あ、あ、あの、わたくし、貴方さまにお話したいことがございますの」
ぎりぎりぎり。強く掴まれた自身の腕に視線を落とした彼は、一言「いいよ」と返した。当然だ。イエス以外の返答など認めない。
「ここでは不都合がありますので、場所を移しませんこと?」
騒めく周囲のことなど、ちっとも頭に無かった。
「良いけど……今から授業だから、放課後で良い?」
ついでに言うと、授業のことも頭からすっぽ抜けていた。
ぴた、と再び動きを止めた私は、いろんなことがぐるぐると渦巻いている頭で、辛うじて『授業はサボったらいけない』という一般常識を弾き出した。
「な、ならお昼休みはいかがかしら」
「駄目。昼は忙しい。却下。放課後なら大丈夫」
にべもない返答に、ぐ、と詰まる。さあどうする、と挑戦的な目を向けてくる吊り目――少なくとも、私にはそのように見えた――。
「よ……」本当は今すぐにでも口止めがしたい。それに放課後は大事な予定がある。が、止むを得ない。ここで彼の口から私の秘密が漏れたら、一大事だ。「よろしくってよ」
ぱっと手を離し、私は再び綺麗に背筋を伸ばし、何事も無かったかのように装い、無心で黒板を見つめる。途中で周囲からの好奇心に満ちた視線に気付いたけれど、それも全て黙殺した。
心臓が爆発しそうだ。私は必死に自分へ言い聞かせた。
(平常心、平常心。こんな男に心を搔き乱されては駄目だ、私。いいか、平常心だ。平常心、平、常、心……!)
がくがく震える指先を必死に固定しながら、私はその三文字を、ひたすら唱え続けた。
――待ちに待った放課後。
私は可能な限り素早く鞄に教科書を詰め、帰り支度を済ませた。何故か帰ろうとしている国永の首根っこを捕らえる……直前で、人の目があることを思い出す。
「国永さま、どこへ行かれるのですか」
呼び掛けに応じた彼は、肩越しに眠たそうな目を私へと向けた。
しばし、彼はじいっと私を見つめる。
「……ああ」
さも、今思い出した、と言わんばかりの声色だった。いや、事実忘れていたのだろう。
「なんか……あったね?」
でなければ、こんな発言が出るものか。
「なんか、あった、ね……?」
こっちが、これ程にも、精神的窮地に追いやられているというのに、その原因を作った張本人が、言うにこと欠いて、「何かあったね」だと……?
「で、どこで話す?」
繰り出しかけていた拳を、彼の一言で引っ込めた。そうだ、国永をタコ殴りにするのは、何も今じゃなくていい。それこそ人目につかない場所の方が好都合だ。
それにしても、人目につかない場所、とは。
校舎裏……は、案内したくない。でもそれ以外で条件に合う場所を、生憎と私は知らない。知っていたら、放課後はそこにいるだろう。
……いや、でも、あの場所でなければ、ハイには会えないわけで。
そうなると、私は全然、まったく、これっぽっちも問題は無いんだけど、ハイは困るかもしれない。貴重な餌がなくなるわけだから。
(……そういえば、今日のご飯、大丈夫かな)
鞄の中に入っている猫缶の存在を思い出す。
大丈夫か。毛並みも良いし、私以外にも餌場の当てはあるだろう。
とは思いつつも、やはり気になる。ずっと待っていたらどうしよう。食いっぱぐれたらどうしよう。いつもの場所で一匹、ちょこんと座る猫を思い浮かべ、私は途方に暮れた気持ちになる。
「場所、決まらないなら、俺が決めるよ」
私の了承も待たず、彼はすたすたと歩き始めた。
「ちょ」慌てて後に続くが、普通に歩いているように見えるのに、やけに足が速い。私は嫋やかなお嬢さま像を保ちつつ、時折小走りで距離を詰め、なんとか彼について行った。
どうでもいいけど、女の子に歩くペース合わせない男はモテないと思う。ほんと、どうでもいいけど。あと残念ながら実際にはこいつ、モテてるんだけど。非常に腹立たしいことに。
人知れぬ攻防戦――対戦相手すら、対戦したことを知らない――の末、辿り着いたのは屋上へ続く扉だった。
「屋上は立ち入り禁止ですわよ」
眉を顰める私をちらっと見た彼は、しれっとした顔で「優等生なんだね」と言った。心なしか馬鹿にされているような気がして、むっとする。
「俺も優等生なんだ」
クールな表情を崩さないまま、彼は懐から鍵をひとつ取り出した。ぎょっとする私の目の前で、国永は鍵穴にそれを突っ込む。
かちん、と錠が外れる音がした。取っ手を捻って押すと、金属音が擦れる音を立てながら、扉が動いた。空の青が飛び込んでくる。
屋上なんて、初めて来た。きょろきょろしていると、「そんな珍しい?」と国永は首を捻った。珍しいも何も、ほとんどの生徒は入ったことがないはずだ。
というか、どうしてお前は鍵を持っている。
私の視線に気付いた彼は、やや面倒そうに肩を竦めた。
「いろいろあって」
つまり、事情を説明するつもりは無いようだ。
「ただし、正規な手段ではない」
しかも犯罪臭がする。
私は速やかに二歩下がった。
「なに、その反応。そっちだって、そんなに変わらないのに」
くあ、と大きく欠伸をしながら宣う国永を、私は遠慮無く睨み付けた。
「大きな差があります。わた、わたくしはただ、……隠れてお菓子を食べているだけで」
「校則では、学校にお菓子持ってくるのは禁止されてるけど」
「犯罪よりはマシでしょう!?」
思わず怒鳴ったが、彼に堪えた様子は見受けられなかった。
「俺だって先生に屋上利用の許可は貰ったよ。……半年前だけど」
「利用期間は?」
「さあ、一日だったか、一年だったか……」
一日だ。絶対、一日だ。
それは許可を取ったとは言わないだろう。確実に有効期限切れだ。無許可だ。
――いや。いやいやいや。国永の事情なんてどうだっていい。
問題は、ひとつだ。
んん、と咳払いをして、真正面から彼と対峙する。
「それより、今朝のことなんですけど……」
「あ、お嬢さまの仮面、取れ掛けてるけど、良いの?」
「よくないわよ!!」
よくないから、今、呼び出しているのに。
素で怒鳴ってしまった自分に気付き、すうーはあー、と深呼吸する。落ち着け、自分。向こうのペースに完全に乗せられている。
というか、マイペース過ぎるのだ、この男が。
今だって、ほら、怒鳴られたばかりだというのに、軽やかな足取りで柵の方へと歩いて行く。自由過ぎる。
むくむくと育っていく苛立ちを、なるべく冷静に見据える。いったん仕切り直そう。私は、お淑やかなお嬢さま。それらしい立ち居振る舞いを心掛けなければ。
「それで、なんだっけ?」
「だから今朝の話ってさっき言ったでしょうがぁ!」
瞬殺だった。がっくりと項垂れる私に、国永が追い打ちをかけた。
「ああ。そうそう、今朝のね。古比奈、ほんとスカートの時はあぐら掻かない方が良いよ。パンツ見えるから」
「見たの!?」
「残念ながら」
それは、どっちの意味だ。戦慄く私に、彼は答えを授けた。
「個人的意見として、昨日のいちごパンツより、一昨日の青の縞パンの方が良いと思う」
「死ね変態」
この場合、手が出た私に罪は無いと思う。