(2)猫の手じゃ足りない
にこにこしている私と碓井、無表情の国永。
その三人の間に、しかめっ面をした女子生徒がずいっと身を乗り出した。
彼女のことはよく知っている。なにしろ、『古比奈結海の友人』なのだから。名前は大咲志乃。お嬢さまの中では、割と攻撃性の高い方だった。今回のハイキングで同じ班でもある。
彼女は叫んだ。
「あなた、ちょーっと古比奈さまに馴れ馴れしいんじゃなくって!?」
あなた、と言いながら、指差した先にいたのは碓井だ。「僕?」と首を捻る彼に対して、「そうよあなたよ!」と彼女はますます詰め寄る。
「古比奈さまは高貴な御人なのよ。あなたがそんな口を利いて良い相手ではないの。わかりまして!?」
「はあ……でも、同じ班ですし、全く話さない、というのも……」
あれ? 同じ班だったっけ? 私は一人首を捻った。考えてみれば道理だ。国永と従者の碓井が同じ班なのは、当然のこと。それでもって、国永と私は同じ班(不本意ながら)。であるならば、私と碓井が同じ班なのは、まあそうだろうな、というレベルの話だった。
私が得心している間にも、一方的な喧嘩、あるいは言い掛かりは更にエスカレートしていた。
「あなたに許されていることは、せいぜい、古比奈さまの一歩前を歩いて、何かあった場合に身を挺して護ることよ。それか三歩後ろで、後方から奇襲を掛けられた時に身代わりにでもなるのね! ああ、だからってすぐ背後にいるのは駄目よ。あなたが古比奈さまを後ろから襲ったら大変だもの」
「いやあ、僕は一応、瑛士さまの従者ですんで」
志乃のめちゃくちゃ失礼な発言にも怒りは見せず、ただただにこにこしている碓井は、彼女の要求をさらっと流した。……意外と精神面が強いな、この男。
「従者以前に、あなた男でしょう! か弱い女の子を護るのが、男の役目よ!」
「はあ、それでも僕は、瑛士さまを第一にお守りするのが仕事なんで」
「か、か弱い……」会話を見学していた国永が片手で口を覆いながら、顔を横に向けた。肩がふるふると震えている。「古比奈が、か弱いとか……」
悪かったな、か弱さとは程遠くて。否定はできないが、むかつく。あんまりにも腹が立ったので、誰も見ていないことを確認した上で、腹を小突いてやった。いた、と上がる悲鳴。恨みがましい目に、んべ、と舌を突き出して返した。
「もういいわ! とにかく、大人しくしておきなさいよ。くれぐれもお二人の邪魔などしないように、あたくしがきっちりきっかり見張ってやりますからね」
志乃はやけに熱が入っている。……そういえば、この子、私と国永の仲をやけに推奨していたっけか。
「その点はご安心を。他人の恋愛事情に首を突っ込む趣味はありませんので」
従者として、そこは多少なりとも気にした方が良いのではなかろうか。
というか、従者なら、国永が猫になることは知っているのだろうか。それとも知らない? いやいや、まさか。でも一応、注意はしておこうか。互いの秘密は洩らさない。曲がりなりにも、国永と約束した手前、自分から破るわけにはいかない。国永のためではない。秘密をばらされたら困る私のためだ。
(そういえばあの時、約束を守る代わりに国永の願いを聞くって話が出てたけど……)
結局、あれから彼は特に何も要求してこない。
その場で揶揄っていただけなのかもしれない。そうだったら良いのに。むしろ忘れていてくれないかな、お願いだから。
そんな考えもあるので、「あれってどうなったのよ」と訊くことができない。「決めるならさっさと決めてよね」とせっつくこともできない。歯痒い。
じとーっとした目を向けると、彼は標準装備の無表情で、いつの間にやら手にしていたサンドイッチをぱくぱく食べている最中だった。憎らしい程に平常運転だ。
……とりあえず。
私が今、この場で真っ先にするべきなのは、いったん場を鎮めることだ。
「みなさん」私はにこにこ笑いながら、自分と行動を共にする班員の顔をゆっくりと見回した。「わたくし、今日はとっても楽しみにしておりましたの。ご迷惑をお掛けするかもしれませんが、どうか仲良くしてくださいませ」
碓井をがるがる威嚇する志乃を見つめ、にっこり笑い掛ければ、お嬢さまはきゃあっと甲高い声を上げた。
「もちろんですわ古比奈さま! 楽しい思い出を作りましょう! そのためならば、この大咲志乃、一肌でも二肌でも脱いでみせますわ!」
脱がなくて良いから、どうかそっとしておいてほしい。
しかし私もお嬢さまの端くれ。そんなことは言えない。
「頼もしいです。……あちらで先生が集合を掛けているようですわ。参りましょう」
「はい! ――ところで、あの眼鏡はどこへ行ったのかしら」
「研なら大咲さんの隣にずっといるよ」
「ひゃあ! あああ、あなた、いったいなんですの……!? はっ、まさかどこかの刺客!?」
「単に影が薄いだけです。ごめんなさい」
先が思いやられるメンバー編成に、私は投げやりな気持ちで空を仰いだ。
ああ、神様でも誰でも良いから、どうにかしてくれ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
歩き続けて数十分。私は学校側に異を唱えたかった。
ハイキングコース、そう聞いていたが、これはハイキングではない。登山だ。別にそこまで本格的な登山ではない。山道をただ歩いているだけ、と言われたらそれまでだ。山ではなく丘じゃないのか、と指摘されたら、そうかもしれないね、と答える。
ただ、普段歩き慣れない人間からしたら、大変ハードな行程なのである。
地図上ではゆらゆらぐねぐねしているだけの道に見えたのに。
「こんなに急勾配だなんて聞いてない……っ」
詐欺だ。これは立派な詐欺事件だ。
私の声に反応した国永が振り向き、足を止めた私の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。膝に手を当て、肩を大きく上下させて荒く息をする私を気遣うような素振りを見せている。
「大丈夫じゃなさそうだね」
「あ、あんた……なんでそんな、普通、なのよ……っ」
「被ってる猫、取れ掛けてるよ」
だから、人の話を聞きなさいよ!
と言い返す気力も湧かず、私はがくがくする足を手で押さえた。もう本当に辛い。なんで毎年ここで、これなの。本当にこれまで文句は出ていないの? 無茶でしょ。無理でしょ?
周辺には人の姿は無い。みんなどこ行った。お嬢さまの仮面を付ける余裕すら残っていないから、好都合ではあるのだけど。
ちなみに、志乃は私よりも更に後方だ。完全に別行動になっている。チームワークも何もあったもんじゃない。『チーム行動をどうにかしてくれ』という私の願いは誰かに届いたようだが、まさかこういう形で叶うとは……予想外です。
志乃には碓井が付いているが、従者なのに主人から離れて良いのだろうか。とはいえ、志乃を一人にするのも不安だし、不安だけれども私に彼女を気にする余裕は無い。故に、この人選は、悔しいが妥当なところだろう。
無作為に思考を伸ばし、時間を潰す。……よし、体力、少しは回復した。ぽん、と膝を手で打って、私はまた前を向く。
「体力はお嬢さまっぽい」
「うっさい」体力は、ってなんだ、体力は、って。
むん、と胸を張り、国永を押し退け、私は急な上り坂を這うように進み始めた。後ろから無感情な声が聞こえてくる。
「リタイアすればいいのに」
「やだ」
「なんで」
なんで、って。そりゃあ。ぽん、と浮かんだのは、自由行動開始前に先生から渡された地図だ。山頂に書いてあった――
「…………」
私は、黙り込んだ。明確な答えを、私は持っている。だが、私はそれを国永には言いたくなかった。絶対に揶揄われるから。
「なんだって良いでしょ!」
「……ふうん?」
訊いたくせに興味は無さそうだ。じゃあ訊くなよ、という気持ちと、これ以上突っ込まれなくて良かった、という気持ちが半々。その隙間を縫うように、そんなことはどうでもいいからとにかく足を動かせ、という気持ちが存在していた。
何を隠そう、(当たり前だけれど)このハイキングは時間制限付きなのだ。先生がたには、この時間までに集合場所に戻ってきてくださいね、と言われている。それまでに山頂に辿り着き、麓まで降りなければならない。割と絶望的である。
ぐぬぐぬと呻きながら、足を進めること数分。
「……古比奈」
「な、なに」
回復した体力が早速尽きかけていた。再び立ち止まり、肩で息をしている私に、国永が提案する。
「荷物、持つ。貸して」
「駄目」
「なんで? 俺の方が体力あるし、問題無い」
「だって、万が一にも滑落や遭難をした時に、荷物が無いと困るでしょ」
荷物を守るように抱え込む。この中には、携帯もあるし少しの飲食物もある。何を隠そう、これは私の命綱なのだ!
「どういう状況を危惧してるの……」国永はぽかんと呆けた顔をした。余程、予想外の返答だったのか。思案顔をした彼は、「じゃあさ」と人差し指を立てた。
「そういう『万が一』があった場合は、俺が助けるよ。猫だから」
「…………へえ」
猫、関係ある? 仮に猫の姿になったとしよう。……何ができるというのだろう。猫だろ? 猫の手も借りたい状態だったとしたら尚のこと、本物の猫の手があってもどうしようもない。