(1)憂鬱な快晴
私の名前は、古比奈結海という。お嬢さま学校に通う、由緒正しいお家柄の正真正銘のお嬢さま。……なのだが、好物はジャンクフード。好きな時間は、放課後に秘密の場所、もとい特別棟の校舎裏で好物を貪り食うこと。
先日、止むを得ない事情により、ある男と共犯関係(何故か主導権はあちらにある)になってしまった。これによる弊害は多々あれど、一番の問題は――
隣の席に座る見目麗しい男子生徒・国永瑛士をちらっと見る。容姿端麗、文武両道。そんな四字熟語を欲しいままにするこの男は、唯一私の秘密を知る人物でもあり、逆に私は、彼の秘密を知っている。
彼は、猫だ。……何言ってんだこいつ、っていう目で見ないで。信じられないのはよーくわかる。私も信じられない。だが事実だ。私はこの目で見た。校舎裏に現れる、頭にインクを零したような模様のあるグレーの猫――国永が、その姿になる瞬間を。
空腹を感じると猫になってしまう体質(どんな体質なんだか……)である国永は、とにかくひたすらよく食べる。そして猫のようによく眠る。
今もうつらうつらと舟を漕ぎながら、カツサンドを頬張っている。
私の視線に気付いた国永は、そっと目を開くと、凍った表情筋を動かして微かに笑ってみせた。
「はよ、古比奈」
「……おはようございます、国永さま」
途端に、きゃあ、と沸き上がる黄色い悲鳴。私は内心、深く、ふかーく、ため息を吐く。決して表には出さない。何故なら私が『お嬢さま』だからだ。ああ、ここが校舎裏だったなら、盛大に肩を落としてやったのに。
「今日もお二人は仲睦まじくいらっしゃるわ」
「本当にそうね! さすがは相思相愛!」
「ああ、憧れますわ……。あんな婚約をわたくしたちもいずれ……」
勘弁してくれ。あと婚約の噂は事実無根だ。
私は彼女たちの熱っぽい視線と、現実とのあまりの乖離に震えた。
――そう、最大の問題。それは、私と共犯者改め国永が交際関係にあるという設定を突き通さなければならないことである。というか、破棄できるなら今すぐにでもそうしたいのだが、今の周囲の状況的に「実は嘘でした」も「もう別れました」も受け入れてもらえないだろうということは容易に想像がつく。喧嘩したの、などと零せば、強制的な仲直りイベントが発生するだろう。となれば、無理に覆すよりも、利用できるところは利用するスタイルでいた方がまだマシだ。
ただしこれには危険も潜んでいる。例えば、お付き合い(笑)の件が、根っからお嬢さま気質である母の耳に入ろうものならば、瞬く間に本当に婚約をするはめになるだろう。行き着く先は、しがらみに雁字搦めにされて、好物のジャンクフードから引き離されるという未来だ。それだけはなんとしても避けたい。
危ない橋を渡っている自覚はあるが、さりとて降りることもできず、私はやりたくもない綱渡りをさせられている気分である。
どんより曇り模様のハートを抱えた私に、取り巻きのお嬢さまが一切悪意の無い顔で笑い掛けた。
「来週が楽しみですわね、古比奈さま」
「ええ。そうね。とっても」
笑い返す。が、会話が理解できない。
来週ってなんだっけ。何があるんだっけ。何かするんだっけ?
「国永さまと一緒にハイキングだなんて……ああ、わたくし、ついつい鼻血が出そうです。眼福ですわ!」
ちょっと大袈裟すぎやしないかい。と、ご令嬢に対する感想を抱くと同時に、疑問が解消された。そうだ、ハイキングだ。お嬢さまがたがハイキングなんて耐え切れるのか私はいささか不安なのだが――まあ、二年生の毎年恒例イベントらしいので、大丈夫なのだろう――、そんなことよりも。
くだんのハイキング。私は自分で希望していないのに、国永と同じ班になってしまったのだ。男女混合、四~六名からなる編成。班決めは希望制のはずなのに、当時、私の意見はことごとくスルーされた。
当時の会話がもくもくと浮かんでくる。
「古比奈さまは国永さまと一緒がよろしいですよね」
「いいえ、わたくしは決してそのような気持ちはございませんわ。みなさまのお話を聞ける方が、勉強になりますもの」
「そんな遠慮なさらないでくださいまし」
「遠慮だなんて、そんな……わたくし、本当に」
「そうですわ。せっかくの機会ですもの。チャンスですのよ!?」
「あの、ですから」
「謙虚・控えめは美徳ですが、時には肉食女子となることが必要なのです」
「…………」
私の発言は、こんな具合で流された。「遠慮でも謙遜でもないわよ。話を聞きなさいよ!」と何度叫びそうになったことか。私は怒鳴らないお嬢さま、私はお淑やかなお嬢さま、と念仏のように唱え続け、どうにかこうにか衝動を抑え込んだ頃には既に班が決まっていた。
なおこの間、もう一人の当事者である国永は、「古比奈と一緒の班になれたら、俺、嬉しいよ」などと宣い、止めるどころか便乗していた。
あいつには危機感が足りないと思う。
第一、普段は感情の起伏の乏しい顔をしているというのに、人を陥れる時だけは楽しそうなのは、人としていかがなものか。
たまに見せるふわっとした笑顔を脳裏に浮かべる。あれだって、私や周囲の反応をおもしろがってやっているに決まっている。それに翻弄されている自分にも腹が立ち、私は口を尖らせた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――そんなわけで。
新しい環境にもそれなりに慣れ、多少は落ち着き始めた心と遠出で浮足立つ心ふたつで臨む、六月の良き日。まさに快晴。これは雨天中止になどなりようはずもない。私は送迎バスから降りると、絶望的な気持ちで青い空を睨んだ。
「晴れて良かったですねぇ」
「〜〜〜〜っ!?」
突然背後から男子生徒に話し掛けられ、身体が飛び上がる。び、び、びっくりした。気配、無かったのに。人畜無害そうな笑みを浮かべて立っている彼にこちらの動揺を気取られぬよう、バクバクしている心臓にぞうっと手を当てながら、私はにこりと笑う。
「そうですわね。雨だと傘を差して歩かなければなりませんから、少々骨が折れますわ。……えぇと」
駄目だ、時間を稼いでみたが、名前が思い出せない。おかしいな、人の名前と顔は、意識的に覚えるようにしているのだが。特にクラスメイトなら、尚更だ。急な出現に驚いた拍子に、記憶から吹っ飛んでしまったのだろうか。
それでも表情は崩さないようにしていたつもりだったのだが、何を察したか、彼はひらひらと手を振った。
「あ、大丈夫です。慣れていますから。僕、存在感が薄いみたいなんですよねぇ。死角から話し掛けるなってよく言われます。正面から話し掛けても同じこと言われるんですけどね。それも含めて気にしません」
はあ、さようで。――で、結局、あんたは誰よ。
私は不躾にならない範囲で、彼をじっくり眺める。やっぱり、見覚えがあるような、ないような。どちらかと言えば、彼が掛けている縁なし眼鏡に見覚えがあるような、……やっぱり無いような。
ならば、と記憶に留めようとするのに、見た先から滑り落ち、輪郭がぼやけていく。ああ、なるほど。彼は本当に存在感が薄いのかもしれない。
えへへ、と笑う線の細い男子生徒の後ろから、国永がバスのドアステップをひとつ飛ばしにしてひょいっと地面に降り立つ。
「古比奈、これ、俺の従者。従者とは名ばかりで、いないことも多いけど。気付いたらいたり、いなかったり、いても気付かなかったり?」
「まあ……そうなんですの」
従者のくせに、それで良いのか。本人が良いなら、それで良いのか? というか、いるのに気付かない、とはいったい。
「碓井研と申します。よろしくお願いします、古比奈さま」
ネタみたいな名前だった。
「今、ネタみたい、とか思ったでしょ」
「そんなことありませんわ、国永さま」
「いやー、むしろネタですよねぇ」
表情筋の硬い国永に対して、従者の碓井はほにゃほにゃぐにゃぐにゃ笑ってばかりだ。足して二で割ればちょうどいいのかもしれない。その流れで、にこやかな国永を想像し……ぞっとした。無表情の方がマシだ。そもそもこいつが笑う時には、ろくなことが起きない。これまでの経験則的に。