(1)猫は盛大に被るもの
「ごきげんよう、みなさん」
私の一日は、古風というか、奥深しいというか、とにかく、こんな挨拶で始まる。
「ごきげんよう、古比奈さま」
「今日も麗しいですわ」
「その髪飾り、素敵ですわね」
お嬢さまがたは、清々しい程に純粋だ。これらの発言だって、嘘偽りはなく、本心から口にしているのだから、驚きだ。きゃいきゃいとはしゃぐ様子は愛らしく、――私の汚れきった心を、ぐさっと突き刺す。
私は、精一杯の笑みを浮かべて、慎ましく返事をした。
「ありがとう。これは、お母さまから頂いた物なの」
ちなみに、母も純粋無垢なお嬢さまである。
「まあ、そうでしたの!」
「道理でよくお似合いですわ」
ありがとう、ありがとう、ありがとう……。
そんな感じで、私の毎日は過ぎていく。
私の生活は、シンプルだ。綺麗な言葉。綺麗な笑顔。綺麗な人間関係。
その中で――
「はよ、古比奈」
唯一私に向かってぞんざいな態度を取るのが、隣の席の、この男・国永瑛士である。
黒々とした髪は、太陽の光を受けて輝いているように見えた。どこか冷たく見える吊り目は、ほとんどの場合、眠たそうに細められている。
ふあ、と大きく欠伸をするなり、彼は机にドサリと置いた鞄の中から、ソーセージパンを取り出して頬張り始めた。マスタードの刺激的な香りが漂ってくる。ぐう、とお腹の虫が鳴きそうになって、慌ててそっと腹に手を当てた。
「……おはようございます、国永さま」
私は、お嬢さまだ。故に、お嬢さまらしい振る舞いをせねばならない。だから、彼に向かって、「なーんーで! 話し掛けてくんの!」などと暴言を吐くわけにはいかない。
彼には、極力関わりたくないのに。
容姿端麗、成績優秀。聞くところによれば、運動神経もかなりよろしいらしいので、文武両道、と表現した方がより的確か。そんなスーパー人間なのに、立ち居振る舞いはこのようにぐうたらだ。休み時間なんて、寝ているか、食べているかの二択。
それなのに成績優秀で、周囲からも人気がある。曰く、ミステリアスな雰囲気がイイとのこと。顔の造形が優れている輩の特権だ。実態は、食っちゃ寝しているだけなのに。私だって、できるものなら、それがいい。
……いや、別に僻んでいるわけではないけれど。
不可解なのは、どうして彼は、私にばかり構うのか、だ。
横目でちらりと彼を窺う。もごもごと口を動かしながら、怠そうに机に身体を預けている。始終眠たそうな彼が、自ら進んで誰かと一緒に行動しているところは滅多に見ない。挨拶を自分からすることだってほぼ無い。
なのに、どうして私? 接点なんてただのひとつも無かったのに、高校の二年生に進級し、同じクラスになってから、彼は毎日のように私に絡んでくる。
お陰さまで、周囲のお嬢さまがたが、無駄に色めき立つ。
「古比奈さま、本日も国永さまと仲がよろしいのね」
「やっぱり、婚約者なのではありませんの?」
違います。
「お互いのことを想って、黙ってらっしゃるのよ」
「相思相愛なのね」
断じて違います。なんで黙することが相思相愛に繋がるの。何も無いから、何も言わないだけなのに。
第一、ほとんど会話らしい会話だってしたことがないのに。なんだってこんな事態に陥っているのか、理解が追い付かない。
私は、ほほほほ、と笑った。
「みなさん、よしてくださいな。わたくしでは、国永さまに到底釣り合いませんわ」
全力の否定に対して、周囲は「そんなそんな」とぱたぱた手を振る。ついでに首も振る。動きがゆっくりだから、赤べこみたいだ。
「ご謙遜を」
「とってもお似合いですわ」
「これ以上ないくらい。自信を持ってくださいませ」
私はにっこりと笑い返す。そんな自信は、持ちたくない。
よりにもよって、婚約者?
「――冗っ談じゃないわよ!」
私は吼えた。無論、他人の目が届かないところで。
具体的に言うと、特別棟の校舎裏だ。放課後のこの場所は、私のオアシスだ。目の前にはお誂え向きに庭まである。
――とはいえ、目の前の花壇は、ほぼ枯れて渇いた立派な荒廃具合だが。
見ていて楽しい場所ではない。それでも……あるいは、だからこそ、私にとって、唯一、気を抜ける場所なのだ。なにせ、教室にはお嬢さまがうようよいるし、家では母とお手伝いさんの目がある。
彼らからしたら、『古比奈結海』があぐらを掻いて地べたに座り、ジャンクフードの袋を開けてお菓子を貪り食うなど、あってはならないことである。母あたりは、発狂するのではなかろうか。
由緒正しきお家柄で、正真正銘のお嬢さまである私だが、残念ながら中身はそれに伴わない。要は、がさつなのである。これはもう、どうにもならない。どんなに品行方正に振る舞おうとも、心の根っこまでは変えられない。普段必死に我慢をしている分、私はこうしてほぼ毎日、本来の自分を前面に押し出して発散している。
それなのに。そう、それなのに。
「私はこんなに毎日毎日毎日必死こいてお嬢さまやってるのに、なんで国永は素で許されるの……!」
重ねて言おう。気に食わない理由は、決して、僻みではない。そう、決して。
婚約者だと勘違いされて嫌なのも、まかり間違ってそれが母の耳にでも入り、本当にセッティングされてはかなわないからだ。いいお家柄に嫁入りなんて、それこそ逃げ場がなくなるじゃないか。こうして好きなお菓子を思う存分食べることだってできなくなるし、あぐらだって掻けない。無理だ。絶対、絶対、ぜーったいに、無理!
「にゃ」
頭を抱え込む私の頭上で、高い音が聞こえた。ばっと顔を上げると、一メートル程離れた場所で、グレーの猫がお座りしていた。頭には、インクを零したような黒くて大きい丸模様がある。――以前まで、私はそれが本当に、インクか何かの汚れだと思っていた。だから折を見てごしごしと擦ったが、取れなかったので、あれはただの模様だということが判明した。なおその際、猫の不評を買ったようで、手に三本の赤い筋と、二つの噛み跡を頂戴した――。
「あ、ハイだ」
灰色の猫だから、ハイ。安直な呼び名だけれど、野良猫を呼ぶには十分だろう。グレーでも良かったのだけれど、グレーだとなんだか必要以上に格好いい響きがある気がして、やめた。
これはあくまでも呼び名だ。正式な名前ではない。あえて付けていない。付けたら、変に愛着が湧きそうだったから。だからハイという呼び名も、気分によってタマとかゴローとかハナとか猫蔵とかに変化する。
今日も来たんだね、と私は声を掛ける。にゃあ、と返事をしたハイは、尻尾をぴんと立てながら、私にすり寄った。頭をぐりぐりと押し付けながら、偶にちらっと期待に満ちた真ん丸い目を向けてくる。餌を強請る時のみに繰り出される精神攻撃だ。
私はジャンクフードと一緒に購入した猫缶を開けて、自分から少し離れた場所に設置した。猫缶は、割と良い香りがする。人間が食べても美味しいのかな、と少しばかり気になるが、口を付けたことはない。なんとなく、食べたら負けな気がする。
ハイはさっさと缶詰に近寄り、がつがつと食べ始めた。甘えモード、早々に終了のお知らせである。別に気にしてなんかないけど。明らかに早食いしている猫を見下ろす。どうだ、うまかろう。なにせ、私のジャンクフードとどっこいどっこいな値段だ。
……なお、あくまで猫缶の献上は、愛情によるものではない。餌付けでもない。言うならば目撃者に対する口止め料といったところか。決して愛着があるわけではない。そこを間違えてはならない。
「しっかし、あんたとも、もう半年の付き合いになるんだねー」
独り言と二人言の大体中間くらいのつもりで、私は口を開いた。案の定、ハイはこちらを見ずに、ごはん一直線だ。
涼しくなった秋口に突然現れるようになった猫は、無事に冬を越したようで、ふっくらとした冬毛から、スマートな夏毛へと生え変わりつつあるようだった。
春といえば、猫が発情する時期でもある。今のところその傾向は見受けられないハイを、横目で眺める。……実は手術済みとか?
出会って半年の期間を経ているが、実のところ性別すら不明である。ほんの興味で股を拝見しようとしたのだが、頑なに拒否されて今に至る。猫のくせに、変態を見るような目で睨んでくるのはやめて欲しい。別に深い意味は無いし、見られて困るものでもないだろうに。
猫缶を綺麗に舐め取ったハイは、満足げに目を細め、前足で丹念に顔を洗っている。
もう少し暑くなったら、カリカリタイプに変えようか。虫が寄って来たら嫌だし。
そこまで考え、ぶんぶんと首を振る。いかん、猫がいる前提の発想になっている。私は別に、この子に愛着なんて無いんだから。
私は、スティックタイプのお菓子をばきっと齧った。口の中でぼりぼりと音が鳴る。この音が良いんだよね。食べてるって感じがして。
ふと、困ったクラスメイトの方へと意識が戻る。
「……ほんっと、これ以上国永と関わりたくない。ましてや婚約者になんて、絶対ならない……」
ジャンクフード・ラブを貫くためにも。
「どうしたら放っといてくれるかなぁ」
そもそも、どうして絡んでくるのかがわからないので、対処の仕様がない。まずもってお嬢さまの仮面が邪魔だ。それが無ければ、「やめろ」という一言で全てが済むのに。
「ねえ、どう思うよ、猫の介」
意見を求めるようにハイを見ると、くだんの猫は、まさに私に尻を向け、歩き去ろうとしているところだった。こちらには一瞥さえくれない。
「……お前、餌の切れ目が、縁の切れ目か」
恨みがましく声を掛けると、ハイは一度だけ、尻尾の先をちらっと揺らした。
注意:作中、古比奈は知らないので「カリカリなら虫は寄ってこない」発言してますが、現実は普通に寄ってきます。ただ、ウェットよりかは幾分かマシ、だと思います。