混乱
この世の全てと関係ありません。
「!」
「ぇー、ぁー…ボンジュール?」
「!?!」
一を言ったら十返ってくるとはまさにこのこと。
私、高瀬栄子はトルコ旅行に来てアタチュルク廟にいたはずなのに何故かエンヴェル・パシャに絡まれている。
ちなみにパシャとはトルコ語だと男性への敬称となっていて、ムスタファ・ケマル・アタチュルクも「ケマル・パシャ」と呼ばれることは多い。
ついそれた意識を目の前の男性へ戻す。
赤いトルコ帽に、常ならば愛嬌を感じさせる丸い目と特徴的な髭と深緑の軍服に輝く勲章は写真と同じ。
髪の毛の色と目の色が違う気がするけど…間違いない。
彼は、エンヴェル・パシャだ。本名はイスマイル・エンヴェル・パシャで、オスマン帝国末期の軍人であり政治家。
青年トルコ人革命の指導者で、かの英雄にとっては上官的立場だった人。
何百年も前の強きオスマン帝国を復活させようとしていた理想家で、『納得しなかった男』等書籍に書かれることも多い。
その壮烈な最後は、死後半月で他国の小説家によって描かれたことも有名だ。
ふと我に帰る。
…そもそも、目の前の人物をエンヴェル・パシャと決めつけているがそっくりさんということも考えられるのではないか。
いや、考えられない。
即座に浮かんだ考えを否定した。
周囲を見渡すと、まるで教科書や歴史の本に載っているモノクロ写真で残された異国の町並みがある。
其処には昔の服を着た古めかしい人々も、動く戦車もいた。
鮮明な色と、匂いは近代トルコを感じさせる。
こんな鮮明な夢があるだろうか。
いや、そもそも私がアタチュルク廟でスヤスヤ眠れるわけがない。
さらに、先程から目の前のエンヴェル・パシャらしき人物と英語でコミュニケーションをとろうとしているが出来ないでいる。
確か昔の公用語は英語ではなくフランス語だ。
エンヴェル・パシャならば、兵学校時代の専修科目であるドイツ語も出来たはずだけど私はドイツ語も出来ない。
体格差のため見上げることとなる彼を見てみるとまだ何か言いたげだ。
…平凡な元介護福祉士がフランス語やドイツ語でコミュニケーション出来るわけがないとどう伝えたらいいのだろうか。
さらに、持っているコミュニケーション用のスケッチブックは全部ローマ字活用されている現代トルコ語か英語か日本語しか記入していない。
現代トルコ語だと彼がトルコにいた時期にはまだなかった形態だ。
本当に、どうやってコミュニケーションを成立させればいいのだろうか。
途方にくれつつも、せめてジェスチャーでコミュニケーションをと試みた。
自分を指差して、地面に日本国旗を書く。
日本人です、と主張するも全く反応が芳しくない。
おかしい。
まだジェスチャーが足りないだろうかと悩む。
「!?」
「ですから私は日本人ですってば!」
「!!」
「ですから、」
「まあ落ち着きなさい」
「そうは言われましても…!?」
今、日本語が聞こえた。
声がしたほうを見ると、小柄で温和そうな日本人の中年男性の姿が。
彼はオスマン帝国の商人風の衣装(アラビア風?)を着ていた。
こちらに近づいてくる様子を見ながら、エンヴェル・パシャが唸るように呟くのが聞こえる。
「トラジロー・ヤマダっ」
「…ええ!?」
山田寅次郎。
日本人で、かの有名な悲劇エルトゥールル沈没事件の際に日本中からのお金をオスマン帝国へ直接届けた人物である。そのまま帰国しようとしたら「是非日本の先生に」と懇願され軍学校の教師となり後に店を持つことになった。
長らく彼と彼の店はオスマン帝国における日本の大使館的な役割を果たしたと言われている。
ちなみに、教師をしていた際に出来た生徒の中にはかの英雄もいたことは確かだ。
エンヴェル・パシャがいるので彼がいるのは可笑しくはない。
しかし…明らかに年齢計算が合わないのだ。
二人はもっと年齢が離れているはず。
やや親しげに見える会話をしている姿が信じられない。
頭痛を感じて頭に手をあてる。
「どういうこと…?」
「ここが、貴女の知る時代と世界じゃないってことさ」
「!」
「やあ、私のアルカダシ。元気かい?」
そう言って笑うのは、大人の姿をしたサビハ・ギョクチェンさんだった。
…だから、年齢が計算にあわないってば。
口をついて出ようとした言葉は、彼女が演技がかった口調で私の持つハンカチを指差したことで遮られる。
「ああっ、それは私のハンカチだ。うっかり向こうの世界に置いてきてしまったものを拾ってくれたのかい!」
……向こうの世界?先程からあり得ないことが多すぎる。
「ここはシュ、デュンヤー(あの世)ではないから安心しなさい。」
「えっと、」
「説明するからおいで」
「でもっ、エンヴェル・パシャが何か」
まだ山田さんに何かを言っている。
視線を向けていると彼女は笑いながら言った。
「あの人はいつもあんな感じだからほっといていいのさ」
扱い酷いね。
そうして私はギョクチェンさんに手を引かれて歩き出した。
(土井さんのそのころ)
『土井武夫、君から電話とは珍しい』
「探し人がいてね」
『…ますます珍しい。「実家」にそんな用件とは』
「光恵も気にしている娘でね。…知人の目の前でいきなり消えた」
『成る程、こちらの仕事だと思ったと?』
「違うとでも?」
『…君はウチが違うということを知りつつも聞くのかな?』
「…」
『答えは「yes」だろう、元当主候補』
「まだ諦めていないのか、選抜者」
『君が、君の血を持つ限り我らは諦めない』
「…」




