きっかけ
この世の全てと無関係です。
第1話、きっかけ
―とある介護施設
「栄子さん、異動したら(介護のやり方とか)ダメになったね」
「…」
利用者さんからのその言葉に、頑張らなくちゃいけないと気を張っていた心が折れた音を聞いた気がした。
私は高瀬栄子、専門学校を卒業して介護施設で働きはじめて三年目の中堅。
就職してからずっと同じ部署で頼れる先輩たちに教えて貰いながら仕事をしていた。
ようやく仕事も仕事の人間関係も安定してきたかなと比較的穏やかに過ごしていたある日。
違う部署の先輩が、田舎にいる年老いた両親の介護のために辞めると聞いた。
私は呑気にも、「これからはご両親とゆっくり過ごしてあげてください。たまにLINE下さると嬉しいです」なんて言ってその先輩と笑ったけど。
次の週には人事部長に呼ばれて、先輩の穴埋めに私が異動と聞かされた。
これは良いことなんだと言葉を並べる部長の声なんて頭に入らなくて、けど口だけはなんとか「ありがとうございます」と動かすことができた。
猶予は1ヶ月、その間に介護計画書とかまとめて身辺整理をして新しい部署の人に挨拶をしてと忙しかったから寂しさなんて感じなかったのが救いだ。
…地獄はその後。
新しい部署に異動したからって三年やってきたことが無くなるわけじゃない。
気づいたら元の部署のやり方でやっていて先輩に注意されてしまう。
異動になったら普段関わっていたやり方だと先輩にも利用者さんからも拒否される。
頑張っているのに空回りばかりで、自分の未熟さに「頑張りが足りないんだから甘えちゃダメっ」と言い聞かせる日々。
夜勤は前の部署と共同だから少し気を抜いていたらナースコールが重なって気づいたら利用者さんをかなり待たせてしまっていた。
申し訳なくて謝罪をのべていた私に利用者さんからの言葉が、
「栄子さん、異動したら(介護のやり方とか)ダメになったね」
だった。
「いつものことじゃない、あの人がキツいのは。そんなことで折れてどうするの?」
「…」
辞表を提出したら部長にそう言われた。
「そもそも辞めてどうするのさ、異動は君に色々な視点から仕事を見られるようキャリアアップのためにもと」
仕事を辞めてどうするのか、確かに考えていなかった。
まだ話しは続いていたけれど、思考は別の方向に向かう。
そういえば定年になったらトルコ行きたいと考えていたことを思い出した。
幼いころ読んだとある伝記のとある英雄の国。
オスマントルコ帝国という古き国から新しいトルコ共和国に生まれ変わらせた。
たんなる思い付きに過ぎないのに、私はそうするのが正しい気がして荷物を手にその場に立ち上がり部長に頭を下げる。
「今までお世話になりました。」
「いや、俺の話し聞いてた!?明らかに聞いてないよね!?」
「あ、仕事ならば大丈夫です申し送りも身辺整理も終わっています。」
「流さないで!!」
流させて下さい。
私、やりたいことが見つかったんです。
そう言うと深々とため息をついて椅子に座ってしまった。
「…新しいスタッフ見つけるの大変なんだけど」
その言葉に頭を下げ、挨拶回りをして私は三年いた職場を退職した。
(薔薇もたしなみます
(事務所にてラスト挨拶)
「ありがとうございます。」
「お礼いうぐらいならば残って…マジで。」
「だが断るです。」
「高瀬さぁあああん!」
「…(部長ってそこはかとなく受けっぽいな)」←)