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架空戦記

帝国海軍通商護衛艦

作者: 山口多聞

 通商護衛艦は、昭和十二年に帝国海軍内部に新設された新艦種である。一見すると、船団護衛専門の艦のように思える。実際に、対外的な発表では「帝国の海上路の警備・維持を主目的とする艦艇」とされていたが、現在は良く知られているように、それだけの艦ではなかった。


 この艦の建造には紆余曲折があった。切欠は、北洋における漁業権益保護であった。


 オホーツク海は豊かな漁場であったが、一方で国境を接するソ連と権益が衝突している海域でもあった。ソ連の海軍力が弱体な頃は、こうした北洋漁場の警備は旧式の駆逐艦程度で間に合っていた。


 しかしながら、ソ連の軍備再建が本格化し、同国が太平洋艦隊に新鋭巡洋艦の配備を公式に発表すると、帝国海軍も旧式駆逐艦では間に合わなくなる。


 とは言え、その頃はまだワシントン、ロンドン軍縮条約の時代。対抗して巡洋艦や駆逐艦を好き勝手に増やせるわけでもなかった。


 そこで、巡洋艦や駆逐艦とは違う条約制限外の艦を建造して、これに充てようという機運が出てきた。北洋の荒海に絶えることが出来、なおかつ戦闘艦艇として漁業保護の役目をこなせる艦。


 大きさは1200トン程度。速力もそこまで速くなくともいい。武装は魚雷を積むと他国を刺激するといけないので、ここはいっそオミットし、代わりにソ連の漁船や巡視船を追い払うに十分な砲力を搭載する。


 さらに、この頃の帝国海軍の補助艦艇には何がしかの掛け持ち仕事が期待されていた。敷設艦であれば輸送艦を兼ね、敷設艇であれば掃海艇も兼ねと言った具合だ。そしてこの新型の警備艦の場合、新たな汎用護衛艦としてのテストベットと言う意味合いが込められていた。


 決戦主義の日本海軍ではあるが、決して通商護衛に無縁であったわけではない。第一次大戦では地中海やインド洋で船団護衛を実施するとともに、大戦後には研究を行った人間もいる。


 戦後その研究や装備の増強はほとんどなされなかったが、細々であるがその方面に目を向けていた人もいた。また海軍内部でも、補助艦艇の充実は広大な委任統治領によってその活動海域が広がった帝国海軍にとって、必要であるという認識はあることにはあった。


 しかし、そこで新たな問題が出る。いつの時代も大きな壁となる予算の壁だ。


 明治以来、富国強兵を唱えた日本であるが、実際のところは貧国強兵だった。国民生活を多少犠牲にしても、軍備の増強を急いできたが、それでも正面装備が精一杯。このような補助艦の予算を取るのは一筋縄ではいかない。


 その一方で、こうした補助艦の必要性に着目している人たちも少ないがいた。


「このままではまた建造が流れてしまう」


「今後の海上護衛にも使える艦のテストベッドになるのに、造れないんじゃな」


「戦艦や空母だけが海軍じゃないのを、偉い人はわかっとらん!」


「でも切実に、予算に限界があるし」


「「「・・・・」」」


 と、とある知恵者があることを考え付いた。


「海軍だけの予算でダメなら、よその省庁に協力してもらえばいい」


「「「「何だって!?」」」」


 こうして、一部少壮士官による北洋漁業保護用兼将来護衛艦テストベット艦の建造予算獲得大作戦がスタートした。


 これまでの海軍艦艇は、多用途だとしても基本的に「海軍でしか」使い道のない艦であった。そこで、彼らは知恵を振り絞って、他所の官庁にも役立つ魅力的な艦だと喧伝し始めた。


「この艦は排水量1200トン程度を予定しており、駆逐艦よりも小型である一方で、掃海艇などより大型です。よって港湾設備が不十分な港でも運用しやすく、数も揃えやすいために海難救助などにも使えます」


 まずは農林省と逓信省。この時代日本には独自の沿岸警備組織はなく、海難救助なども基本的に海軍が担っていた。一方漁業関係は農林省、運輸関係(つまり商船関係)は逓信省が担っていたので、海難救助に使える艦艇が増強されることはメリットがあると訴えたわけだ。


 また将来戦時になった時に、通商路保護のための護衛艦を準備するためにも必須となれば、逓信省としてもその整備に理解を示す。


「で、お宅にもメリットがあるから、予算獲得で便宜を図って欲しい」


 予算獲得の上で最大の敵となるのは大蔵省であり、そして審議をする帝国議会だ。


 海軍単独では大蔵省と帝国議会を突き崩すのは容易ではないが、他の官庁や一部なりとも議員から「まあまあ、海軍さんの言うことにも一理あるから」とそれとなく援護射撃してくれれば、予算案が通りやすくなる。さらに欲を言えば「水産業保護の艦艇から、農林省から多少予算を流用してもらっても構わない」とか言ってもらえれば一番いいが、さすがにこれはムシが良すぎる話であった。


 ちなみに海軍少壮士官グループが声を掛けたのは、農林省や逓信省だけではない。内務省や当の大蔵省の役人にも接触し、その必要性を説明している。


 内務省に関しては。


「この艦は北方警備のみならず、沿岸部の救難や警備にも利用できる。今後益々脅威となる共産主義者の密航や、沿岸部における犯罪抑止に威力を発揮できる」


 この時代、水上における治安維持機関として水上警察は既にあったが、前述したように沿岸警備専門の機関はなく、この艦はその穴埋めに使えて内務省にもメリットがあると説いた。


 さらに、沿岸部の政治家への根回しも細々とだが行われた。


「この手の艦は小規模な港にも停泊できるので、これまで海軍と取引できなかった先生の地区の村や町にもお金が落ちますよ」


 そして、最後の大蔵省への対策も出来る限り行う。アピールするのは、この艦が有事だけでなく、平時でも使える艦であること。海軍のみならず、他の省庁にとってもメリットがあることだ。とは言え、これだけではまだ足りない。


「艦自体が安く、数を揃えられないと意味がない」


 艦その物が安ければ、大蔵省も首を縦に振りやすくなる。そう言うわけで、設計を行う艦政本部(ちなみに任されたのはやはり若手)では、極力安く出来るように設計に工夫を凝らす。


 まず船体は後に「香取」型巡洋艦で採用されたのと同じく、商船形式を採用した。これは戦時だけでなく、平時でも数を揃えられること、また軍艦の建造経験のない造船所でも容易に建造できるようにするためであった。


 武装は平時は12cm単装砲3門、25mm連装機銃3基、13mm単装機銃4基、爆雷投射基2基を基本とした。基本としたというのは、平時の北方漁業警備はこの程度で良いが、いざ戦時となれば追加装備が出来るように、予め織り込まれていた。


 この戦時兵装は、主砲が4門に強化されると同時に雷装(53cm三連装または61cm連装)、対潜強化(聴音器の装備と爆雷軌条の装備に爆雷定数増強)掃海(掃海具の搭載)とそれぞれ数パターンが考慮され、艦にはその装備搭載用スペースと、そのための余剰人員居住区が、簡易な改造で設置できるよう取り計らわれた。


 排水量は当初計画通り1200トンになったが、最高速力は24ノットと低めに抑えられ、エンジンはディーゼル機関となった。これは燃費の良さからの選択であった。


 最高速力が中途半端な24ノットに設定されたのは、30ノットでは使用目的に対して不必要な高速であり、商船型の船体では機関を高出力にしなくてはならず、経済性が悪化する。逆に20ノットでは、高速商船と同じレベルで、それらを徴用すれば良いと結論付けられるため。またそれらを護衛することも考慮すると、プラス4ノットが妥当とされたためだ。


 こうして様々な手を駆使して、この新たな艦の建造への計画は着々と進められた。


 そして昭和十二年度の予算で8隻の建造が認められた。これは事前の周到な根回しが功をそうした結果でもあり、またこの頃この艦の当初目的とも言えた漁業保護とそれに伴うソ連海軍との対決が、ソ連太平洋艦隊の増強によって、俄かに注目を集めたのも理由であった。


 なお、この時までは仮称護衛艦と呼ばれていたこの艦は、正式に通商護衛艦とされた。これはただの護衛艦では駆逐艦などと誤解される可能性があり、あくまでそれよりもワンランク下の沿岸警備や漁業保護の艦と言う意味合いであった。また一部からは、海防艦の呼称を引き継ぐ案も出されたが、これまで戦艦や装甲巡洋艦が名乗った称号を、商船まがいの小型艦が名乗るは不遜と言う意見がまかり通り、流れてしまった。


 しかし、それ以上に誤算となったのはこの年の7月に支那事変が勃発し、軍事予算が青天井となったことに加えて、海上封鎖の意味から沿岸部での戦闘可能なこの種の艦艇の急速整備が求められたことだ。


 このため、十二年度の臨時予算ではさらに6隻。さらに翌年の十三年度予算では一気に10隻の整備が認められた。これは単に軍事予算が増やされたのや、帝国海軍が必要性に駆られただけでなく、この艦のコストの安さと船体構造にあった。


 何せ船体構造は商船式を採用しているため、普段は軍艦を扱わない造船所でも建造可能と言う強みがあった。またそのために、特別な技術が必要とならないから、建造単価がただでさえ安い所へ、まとまった数を発注すればさらに安くなる。


 実はこの通商護衛艦の少し後に、より小型で数を揃えられるという触れ込みで三菱が自社提案と言う形で、800トン級の北洋警備艦を海軍に提案し、試験的に「占守」型として4隻が建造されている。


 ところが、この「占守」型。確かに通商護衛艦より小型で、より本格的な戦闘艦艇としての設計がなされていた。しかしながら、肝心の価格と数を揃えられると言う面では、むしろ劣っていた。原因は設計した三菱の設計陣が、通商護衛艦を超える艦をと力み過ぎて、やたら凝った設計を取ってしまったことだった。


 ちなみに、こちらはちゃんとした軍艦式の構造での設計だったため、通商護衛艦の時には流れてしまった海防艦の呼称がいただけた。そのため、後に撤去されるが竣工時点では、菊の御紋もちゃんと付けられていた。


 しかし、結局海防艦の建造はこの「占守」型と、より量産性を高めた「択捉」型4隻の計8隻で終わった。三菱や艦政本部ではさらに簡易化した仮称乙型や仮称丙丁型の設計も行ったが、残念ながらその採用には至らなかった。原因は通商護衛艦の使い勝手の良さにあった。


 確かに通商護衛艦は商船式船体の採用など、防御力では劣る部分もあったが、やはり民間造船所でも建造可能であり、さらに排水量は1.5倍ながら建造単価は海防艦と変わらない。また無理のない設計のため居住性能や拡張性が担保されており、乗員からも好評だった。


 こうして建造が進められた通商護衛艦であるが、前述したように完成直後に支那事変が勃発したため、一部の艦は当初の北洋や日本本土沿岸の警備任務ではなく、遠く南シナ海にまで派遣され、沿岸部における封鎖作戦などに参加した。そしてここで、この艦はその優れた性能を発揮することとなった。


 ガチガチの戦闘艦艇である巡洋艦や駆逐艦の乗員からは「軍艦もどき」「漁船のお化け」「敵よりも鯨を追いかけた方がいい」と散々バカにされたが、実際の所それら正規の艦艇よりも、通商護衛艦の方がはるかに役に立った。


 と言うのも、元々経済性に重点が置かれた設計だったため、燃費がいい。また相手は艦艇よりも密輸を図るジャンクなど小型艇などの方が多く、速力もいらない。武装もそれに対しては充分すぎるものを持っている。


 さらに、ゆとりある居住性能のため長期間その任務に就くことも可能だった。これはこの船の使用目的に遠洋における救難作業や、有事の通商路護衛(想定海域は日本本土~トラック島)を想定していたためだ。もちろん、北洋における漁業保護も兼ねられるようにも配慮されているため、その結果が長い航続力とゆとりある居住性能だった。


 またこうしたゆとりのあるスペースは、一見無駄とも思える物だったが、暫時兵装を強化した際にはその搭載スペース、或いは取り扱う将兵の居住スペースにもある。


 後の太平洋戦争で、多くの艦艇が増強した機銃座などの兵員によって、居住性の低下に悩まされたが、この艦の場合は、結局終戦までそうした面での苦情は出なかったという。もちろん、多少居住性は悪化したのであるが、他艦に比べれば遥かに天国だったということだ。


 さて、そうして通商護衛艦は支那事変の最中から、それこそ馬車馬のごとく働くこととなった。大陸方面に派遣された艦は、主に沿岸部での封鎖作戦を行ったが、小柄な艦体を生かして長江や揚子江の河口部などでのパトロール任務も行った。この際に、当初の設計通りに掃海具を搭載して掃海任務に投入されたりもしている。


 また本土や台湾に配置された艦は、逓信省や内務省などを抱き込んだとおりに、沿岸部における警備や救難、密出入国の取り締まりなどにも活躍した。


 支那方面に派遣された艦を除くと、追加装備を搭載した艦はほとんどなく、この頃竣工した艦の多くは原設計どおりの真っ新な状態であった。


 これまで、防備に配置される艦は旧型艦や小型艦ばかりで将兵の士気も今一つパッとしなかったが、新造艦でなおかつ居住性がいいとなれば、それなりに上げることにも寄与した。


 もちろん、効果はそれだけではない。これまで海軍の艦艇など見ることもなかった地方には、新たに鎮守府の出張所や派出所が設けられた。たった1隻の通商護衛艦と、数十人の乗組員と隊員が常駐するだけとはいえ、そこに海軍の船がいて基地が置かれたということは、国民と海軍の距離を近づけるのに役立った。


 日本陸海軍では、将兵と民間との交流を出来るだけ差別化して、娑婆っ気を抜くという風潮があったが、この通商護衛艦と出張所や派出所では、日々の生活上近隣住民との交流は欠かせなかった。また海難などにはいの一番に住民の要請を受けて出動するので、自然と地元住民との距離は近い物になっていった。


 こうして、通商護衛艦の地方配備艦は昭和16年12月の日米開戦までに、実に16隻が整備され、北は千島列島の単冠湾から、南は台湾の恒春まで配備されていた。


 そして、支那事変の泥沼化と、その後の対米関係悪化に拍車がかかると、通商護衛艦を取り巻く環境も変化を強いられる。まず地方配備艦は、対米開戦前後から武装の強化に入った。その内容は主に米潜水艦対策としての爆雷の定数増加と、機銃の増備であった。地方配備艦の場合、本土に接近する敵潜水艦、或いは敵航空機が脅威となったので、こうした策が採られた。なお、まだ電探はなかったが、聴音器は搭載されていた。


 一方、連合艦隊指揮下の各艦隊の付属となった艦は、それぞれの作戦海域に合わせた改装を行う。例えば蘭印への輸送船団護衛を任務とした艦は、敵艦隊との戦闘に備えて魚雷発射管を装備した。北方の警備を行う艦は迷彩を施し、耐寒設備を強化した。或いは中部太平洋方面配備の場合は耐署装備を強化するとともに、味方根拠地防備のために敷設用の装備を搭載した艦もあった。


 とにかく、短期間に手ごろな価格で揃えられるため、太平洋戦争開戦時点で実に48隻が竣工していた。しかも、これは日本海軍向けだけの話で、他に中国大陸の青島と上海で2隻ずつ、旅順で1隻を含む国外向け6隻と、武装を搭載せずその他の官庁(台湾総督府や朝鮮総督府、農林省、逓信省や南洋庁など)向けに12隻が竣工していた。


 ちなみに海外向けの内満州国向けと、そしてその他官庁向けを含む15隻が徴用や貸与と言う形で陸海軍に召し上げられた。


 こうして対米戦が始まると、通商護衛艦の内緒戦の侵攻作戦に参加を終えた艦や、地方配備の内の何隻かが、昭和17年2月に新設された第一・第二護衛隊に転籍し、設計段階で見込まれた通商路護衛の任に就き始める。この時この任務に就いたのは計12隻で、同じく編入した旧式駆逐艦や掃海艇などとともに、その後の終戦までの長く苦しい戦いに身を投じることとなった。


 また開戦直前の造船計画で、通商護衛艦は新たに50隻の建造が決定していた。これら戦時型はより簡易かつ大量建造に向いた設計を採用したが、基本設計は以前のままだったので、性能などの変化は特にない。


 通商護衛艦は海戦に参加することは稀であったが、昭和17年4月18日の本土初空襲時には、房総沖の特設監視艇隊と行動を共にしていた23号が米機動部隊と遭遇、米巡洋艦の砲撃によって大破(後自沈)しつつも、本土に機動部隊発見と、敵機発信の報を送っている。この結果、本土に敵機侵入こそ許したが、横須賀では味方戦闘機と艦艇による迎撃に成功することに繋がった。


 一方海上護衛隊配属艦の戦いは、昭和17年中ごろから本格化し、最初の大きな任務としては空母改装のために本土へ帰還する客船「ぶらじる丸」の護衛で、17号が掃海艇1隻とともに任務に参加し、同船に魚雷攻撃を試みた米潜水艦に爆雷攻撃を仕掛けている。この時は双方ともに損害なしであったが、これ以降米潜水艦との対決が本格化する。


 昭和18年になると、米潜水艦の活動が活発化し、商船の損害が目に見えて増え始めた。一方で、開戦直前計画の50隻はほぼ全てが竣工し、開戦後の喪失分の補充や、強化された本土防衛のための地方配備に加え、8月に発足した第一・第二海上護衛隊を母体とする海上護衛総司令部にも配備された。


 また開戦後の造船計画で昭和17年度に80隻。翌18年には120隻が。さらに19年度には200隻の建造が計画された。とにかく、安くどこでも作れることから、新たに香港やシンガポールなどの占領地での建造も行われた。


 最終的に、昭和20年9月の終戦までの竣工隻数は実に412隻と言う大量の数となった。これは同艦が多用途設計のために、戦時中に駆潜艇や敷設艦、掃海艇と言った小艦艇の建造を中止して振替えた分も含まれることも大きい。


 日本海軍の艦としては珍しく、沈めても沈めても次々に新手が出現することから、米軍の間では「ゾンビ・シップ」等と揶揄されることもあった。ただし、このゾンビの意味には手強い敵と言う意味も含まれていた。


 と言うのも、昭和18年に米潜水艦の行動が活発化するのと同時に通商護衛艦の建造・配備数も増加した。


 1200t(後期型は装備の増加などで1300t)と言う小型ながら安定したプラットホームの船体に、24ノット(同23ノット)と言う駆逐艦から見れば低速だが、潜水艦を追いかけまわすには充分な速力性能は、米潜水艦にとって大きな脅威となった。


 もちろん、レーダーやソナー等の装備面での劣勢から、米潜水艦や航空機に沈められる艦もそれなりに出たが、一方で余裕ある船体に多数の爆雷や迫撃砲を搭載出来たため、例え当てずっぽうでも米潜水艦にプレッシャーを与えた例もある。


 米潜水艦に沈められた通商護衛艦は実に71隻に上るが、一方で米潜水艦の撃沈数も戦後公開された米側資料と照らし合わせれば、単独・共同含めて実に35隻にのぼる。

 

 また航空機に対しても、後期型は主砲を89式12,7cm高角砲に換装したり、機銃を増備したり、一部には対空噴進砲を搭載するなどして戦った。航空機に撃沈された艦も52隻と非常に多い。その一方で、充実した対空火器で、敵機を撃墜した報告例も数多くあった。


 とは言え、この通商護衛艦をもってしても戦争全体の劣勢を挽回するには至らなかった。確かにこの艦の存在で、船団に付く護衛艦の数は増し、米潜水艦や航空機に一定の脅威となったが、それも圧倒的な戦力差の前に押しつぶされてしまった。特に昭和19年8月にマリアナ諸島を、同11月にフィリピンを実質的に喪失して以降は、本来は戦闘を考慮していない敵の有力な機動部隊や水上艦隊に直接攻撃を受ける場合も多くなり、もうどうにもならなくなった。


 その一方で、一部の地方配備艦は本土防空で主砲を高角砲に換装するなどして、終戦のその日まで戦い続けた。また連合軍の北方よりの侵攻に備え、千島配備となっていて3隻が、昭和20年9月初旬に突如として侵入したソ連軍艦艇と交戦している。皮肉なことに、同艦が最後に戦う相手となったのは、最初に戦うことを想定していたソ連海軍であった。


 この千島配備型は、主砲も平射砲で魚雷発射管装備の古いタイプであったが、ソ連艦艇相手に善戦し、航空隊と協同で4隻の艦艇の撃沈確実を報じるとともに、占守島の陸軍守備隊の奮戦と合わせて、ソ連軍の野望を頓挫させた。


 そうして太平洋を駆け抜けた通商護衛艦は、終戦時点で未だに200隻が健在であり、この内150隻は稼働或いは簡易な整備で稼働状態にあった。また各地の造船所には30隻余りの未成艦があった。このため、終戦直後から始まる外地からの復員・引き揚げに動員された。


 復員と引き揚げがひと段落すると、通商護衛艦の内100隻程が戦時賠償として連合国各国に割り当てられた。その一方で残る80隻程の処遇が問題となった。日本を占領したGHQは全面解体を当初考えていたが、商船構造であり、小型貨物船や巡視船、観測船への転用可能であることから、日本政府や船会社から非武装化の上での転用許可の上申がなされた。


 この結果、最終的に非武装に費用と手間が掛かると判断された30隻を除く50隻が非武装化の上で商船会社や海上保安庁を始めとする官庁に移管された。そしてこの内4隻は、後に海上警備隊、さらには海上自衛隊に移管されることとなる。


 通商護衛艦は日本海軍で数少ないマスプロに成功し、必要な時に手に入った艦であったが、それをもってしても戦略全体の敗勢を覆すには至らなかった。同艦は日本海軍の成功と失敗の双方を象徴する存在なのである。

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― 新着の感想 ―
[一言] 仮に最初の艦から最後まで全て姉妹艦のくくりとするなら、この世界での艦これではフレッチャー級を超える世界で一番多く建造された護衛艦というか小型駆逐艦であり、412人姉妹の長女ってなりますなぁw…
[良い点] はじめまして。私はいわゆる主力艦よりも小艦艇のほうに興味あり、この手の艦艇がもう少しあれば史実よりましな戦いになったかもと思います [気になる点] 細かく検討したわけでないですが排水量に対…
2017/09/16 12:11 通りすがりの野良猫
[一言]  とても面白い作品でした!  なかなか、こう言った補助艦艇に注目をする作者さんは少なく、かくいう私もその一人です。  何せ、スポットを当てられるほどの活躍があまりないというのが補助艦艇のネッ…
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