第159話~森の底に潜むもの~
そこは窪地の底に出来た沼だった。
窪地自体の大きさは直径四キロほどの円形で、深皿のような型に五十メートルほどの深さで抉れている。その中心部に直径一キロほどの、やはりほぼ円形の水面が静かに空を映している。風が入らないためか、ほとんど波が立っていない。東側からは小川が流れ込んでいるけど流れは細く、全体に影響を与えるほどではないようだ。
沼から流れ出る川はない。地面にしみ込んで地下水になっているんだろう。そうやって流れ込んだ水が周囲を削って、この窪地ができたのかもしれない。
沼の水はそこそこ澄んでいるけど、薄い紅茶みたいな赤みを帯びている。真ん中あたりの深い所は赤黒くさえ見える。ステインってやつかな? 日本じゃあまり見かけないけど、海外では偶にある水質らしい。釣りの本で読んだ。
岸辺にはマングローブのように根の露出した木や葦っぽい背の高い草、緑色の苔のような背の低い草等、結構多彩な植生が見て取れる。緑が濃い。もう夏だけど、色とりどりの花も咲いている。沼の中に数か所ある立ち枯れた木は、沼が出来る過程で沈んだものだろう。ベージュっぽい白茶けた幹が何かの骨のようにも見えなくもない。
水面には、蓮に似た水草が岸辺近くの数か所に生えている。レンコンのように軸の先に葉が開いているタイプではなく、オニバスのように水面に浮いてるタイプだ。カエルが乗ってるとそれっぽいんだけど、残念ながら見当たらない。
沼の周囲にはそれなりの数の魔物が生息しているようで、気配察知には大小さまざまな反応がある。もちろん水中にも反応はある。死んだ水じゃなくて、ちゃんと生きてる水のようだ。
そして、肝心のトンボはというと、
「と、飛んでますわね」
「いやぁ、話には聞いとったけど、ホンマにデカいな!」
「ふ、普段見るトンボとは段違いだぜ」
「あらあら、人間くらいなら抱えて飛べそうね」
居た。カメラで視認できるだけでも五匹以上いる。依頼は達成できそうだけど、そのサイズが聞いてたよりもデカい気がする。翅の端から端まで二メートル弱って聞いてたのに、沼の上空をスイーッと飛んでいるトンボは、どう見てもその倍近い大きさがある。大きい奴は四メートルを超えているかも。やはり魔素が濃いと魔物は巨大化するようだ。モニター平面に映るその威容に、皆の声も上擦っている。
そして、モニター平面に映っているのはトンボだけじゃない。
沼の周囲を飛んでいるモンシロチョウみたいな白い蝶(?)。こいつも翼長が一メートルを超えている。クチナシくらいの大きさがある花がカスミソウの一輪に見える。その蝶と蜜集めを競っているミツバチっぽい虫も、やはり全長二十センチ以上ある超大型だ。このサイズなら、オオスズメバチともタイマンを張れるんじゃなかろうか? いや、その場合はスズメバチも同じように大型化してるか。比率からすると、五十センチ超えしててもおかしくない。大爪熊より危険そうだ。居ない事を祈ろう。
「巨大昆虫の王国だね。まるで自分が小さくなったみたいだ」
「こ、これは流石に、少々恐怖を感じますわ」
「喰い付かれそうだみゃ」
「……アタシは美味しくない。多分」
心なしか、皆の顔が青い。確かに、迂闊に近づけばあの大きいアゴでガリガリと齧られてしまいそうだ。トンボって、幼虫も成虫も肉食だし。普通サイズのトンボはウンカや蚊を喰ってるらしいけど、あの巨体ならそこそこ大きな哺乳類でも餌にできるだろう。それこそゴブリンどころかホブゴブリン、もしかしたら猪人だって喰えるかも。人間だって例外じゃない。
「近づくのは危険かもしれないから、カメラとマイクだけ送り込んですこし様子をみよう。沼の中やその周りの森にもでっかい虫がいるかもしれないしね」
セミやバッタならまだしも、巨大なGが居たりしたら洒落にならない。綿密な調査が必要だ。まさか謎進化してヒト型になってたりしてないだろうな? じょう。
「そ、そうですわね。虫は群れることもありますし、安全を確保してから動くのが最善ですわね!」
「群れって……ちょっと、怖い事言わんといて! サブイボ出たわ!」
「うみゃ。台所に出る黒いヤツも一匹見つけたら……」
「あらあら。アーニャ、それ以上言ったら夕飯抜きにするわよ?」
「うみゃっ!?」
やはり皆、女の子だな。虫は苦手なようだ。アーニャの不用意な発言を、ルカが黒い笑顔でぶった切った。調理担当のルカにとって、アイツらは敵以外の何者でもないからな。
さすがの俺も、あそこまでデカい虫はちょっと怖い。というか、そもそも虫が苦手だ。正確には『群れる虫』がだ。ほとんど無敵の俺の平面魔法の、数少ない天敵だからな。一匹二匹なら全然問題ないけど、集団で襲いかかられたらちょっとやばい。数の暴力は侮れない。トンボは群れないから大丈夫だろうけど、ハチは気を付けた方が良さそうだ。
ということで、しばらくは窪地の外からカメラと気配察知を使って調査だ。安全第一。
◇
気配察知で魔力を探り、そこへカメラを移動させて確認する。地味な作業を約一時間繰り返して分かったことは、この窪地が巨大昆虫の楽園だということだった。
地上や空中にいる虫は例外なく巨大だ。特に、肉食の虫ほど巨大化する傾向が強いように見える。
トンボ以外の肉食系の虫では、クモとカマキリが確認できた。
クモは大森林外縁にいる大蜘蛛と違って、走るのが速いアシダカグモ系の奴だ。追いかけて獲物を捕まえるスプリンタータイプ。足を拡げた大きさは四畳半くらいで、平均的な成人男性より遥かに大きい。全体に白っぽい灰色で、腹部の背中側には少し茶色がかった灰色で鬼面のような模様が入っている。全身に細い透明の柔毛がびっしり生えていて、ぶっちゃけキモイ。走るのも速いし、木登りも速い。これは近寄りたくないなぁ。カメラに映ったときには、女性陣から盛大に悲鳴が上がっていた。
カマキリのほうは、茶色い体色に白い斑模様が入っていて、全長は三メーターちょっと。某格闘家がイメージトレーニングで対戦したやつよりちょっとデカいかな? フォルムはごく普通のカマキリで、鎌が左右二対あるなんてことはなかった。ただ、巨大化した分、その身体は硬そうに見えた。正面から戦うとなると、かなりの強敵かもしれない。虫は力が強いしな。
草食系の虫も、トンボやカマキリほどじゃないにしても巨大だった。俺の天敵、イナゴ系のバッタも五十センチ以上のやつが確認できたし、Gも三十センチくらいの奴が確認できた。発見した時には、クモの時以上の悲鳴が女性陣から上がっていた。俺としては、謎進化していないみたいで安心した。じょうじ。
一方で、あまり巨大化していない虫もいた。ファンタジーでは定番の巨大アリだけど、調査した限りでは最大でも五センチほどの大きさしかなかった。いや、十分デカいけど、それ以外が大き過ぎだからなぁ。でもアリは群れるから、戦うことになったら一番の難敵になるかもしれない。リアルに『〇い絨毯』だ。他にもダンゴムシ、ムカデ、セミなんかがいたけど、どれも普通よりちょっと大きいくらいだった。
反面、水中の生物は、ヤゴ以外はごく普通のサイズばかりだった。ナマズや鯉に似た魚で五十センチ超のモノはいたけど、魚類としては特に珍しくもないサイズだ。むしろ、亜熱帯の魚にしては小型かもしれない。ヤゴに喰われてたし。六十センチ以上あるヤゴなんて、もはやエイリアンと変わらない。アゴ伸びるし。
「魚と虫しかいないな? 虫を食べるカエルやトカゲくらいは居そうなものなのに」
「せやな。逆に食べられたんちゃう?」
「あの大きさですもの、有り得ますわね。獣も同じ理由で駆逐されたのかもしれませんわ」
ふむ、有り得ない話ではないか。あのサイズの虫を喰えるカエルやトカゲが、そうそういるとは思えないし。別に壁があるわけじゃなし、喰われそうになったらこの窪地から逃げればいいだけの話だしな。ちょっと知恵があればこの窪地から出て行くだろう。
あれ? なんか今、思考に引っかかるものがあったな。なんだろう、何か見落としてるみたいな、変な違和感が。んん?
「まぁいいじゃねぇか。これだけ数が居るなら、二~三匹くらい減っても絶滅することはねぇだろ。さっさと狩って街へ戻ろうぜ。こんなに虫ばっかだと気持ち悪くていけねぇ」
「うみゃ。お魚を食べるあいつらはアタシの敵みゃ! 多少減っても構わないみゃ!」
「……不味そう」
サマンサが両手で二の腕を擦りながら言う。気持ちは分かる。俺もなんかむず痒いような、変な感じがするし。
デイジーには虫が不味そうに見えるらしいけど、食材としての虫は珍しいものじゃない。クモはチョコに似た味がするって聞くし、蝶の蛹のチョコがけなんてものも聞いたことがある。けど、食べる気が湧かないのは俺も同じだ。他にも食べられるものはあるんだし。
「それじゃ、そろそろ沼のほうへ降りてみようか。大きい虫が居たら狩って、それ以外は放置ね」
「「「「「「はい!」」」」」」
収集する素材は、別にトンボの目じゃなくてもいい。レンズに出来る大きさなら、ハチでもカマキリでも問題ない。単一種だけ狩って生態系が崩れると良くないだろうから、万遍無く狩ったほうがいいだろう。
「木の根が枯れ葉で隠れてるから、足元に気を付け……うん? どうしたの、ウーちゃん?」
窪地の斜面を下り始めて一分ほど、急にウーちゃんが俺のベストの裾を咥えて引き止めた。耳と尻尾が下がってて、なにやら困った表情だ。
ウーちゃんは賢い。理由もなく噛んだりしない。気配察知には特に異常はないけど、きっと何か危険を察知したんだろう。ウーちゃんだけが感じる何か……臭い、ガスか? でも、虫は普通に飛んでるしな。いや、哺乳類にだけ効果があるガスということもあり得る。調べてみるか。
「クリステラ、この周囲の空気を天秤魔法で調べてみて。何か変なガスが混じってない?」
クリステラには、空気が数種類の分子で構成されていることを教えてある。以前それで大気の構成を調べてもらったところ、数パーセントの魔素が存在する以外は地球とほぼ同じであることが判明している。もしこの窪地の大気の構成要素にそれ以外のものが混じっていたら、それが毒ガス成分だろう。
「はい! かしこまりましたわ! ……魔素が街よりも幾分多いですけど、特に変わった要素はありませんわね。毒ガスではないようですわ」
「そうか……うん? デイジー、どうかした? 顔色が悪いよ?」
クリステラの報告を聞いていると、デイジーが具合を悪そうにしているのが目に入った。顔を青くして脂汗を流している。よく見れば、サマンサも同じ様に顔を青くしている。
「……頭痛い。吐きそう」
「アタイも……さっきまで調子良かったのに」
「っ! 皆、直ぐに戻るよ! なんかヤバい!! 原因は分からないけど、ここは危険だ!」
急いで全員を平面に乗せ、高速で窪地の外へと連れ出す! やっぱりここには何かがあるらしい! ガスか!? 細菌か!? それとも魔法!?
ともかく、非常事態発生だ!








