31.倉庫
部屋を出て、あたし達は再び薄汚れた路地を進んでいた。こちらを窺いながらヒソヒソ話す男達の数も少なくなり、服を着替えたせいかそれほど注目を集めずにすんでいる。悪臭、汚物、ごみくず。それらは相変わらずそこにあるが、先ほどのような肌がひりつく緊張感は感じなくなっていた。もちろん、頭のイカれた変態男が、ストーカーのようについて来て物陰で待ち伏せしている、なんてこともない。途中、女の甲高い嬌声がひっきりなしに聞こえる建物の前を通り、ジェマが不安げな顔で見上げて来たが、あたしは努めて笑顔で気付かないフリを装った。
レオは、道端に座ってる子供から帽子を2つ買い取ってあたし達に被せた以外、始終無言だった。でもだからと言って、不機嫌そうにも見えなかった。目が合うと大抵、口の両端を上げ、面白がっている表情を浮かべていた。もしかしたらそれは、道中、あたしとジェマが、ガニ又歩きをしていたせいかもしれない。ジェマのガニ又歩きは、はっきり言って下手くそだ。でもそれは、子供特有の微笑ましさである程度カバーされていて、唇をとんがらせ一生懸命な姿は、おかしさの中に可愛らしさを含んでいた。一方で、あたしのガニ又歩きは下手くそで無格好、微笑ましさでカバーされない分、とんでもなくバカみたいに見えた。ガニ又歩きについては、後でジェマと話し合った方がいいかもしれない。
倉庫のような建物が何棟も並んでいる一角で、レオが足を止めた。1棟1棟が学校の体育館ぐらいの大きさがあり、実用性重視の飾り気のない無骨で四角い建物。両開きの黒いドアの上には数字が書かれたプレートが掲げられている。他に人影はなく、隣の倉庫の屋根に尾羽の長いカラスに似た鳥が1羽止まっているだけだ。
「ここは?」あたしはレオに訊いた。
「港までの足に『伝手がある』と言っただろう。ここでそいつと会う約束になっている」
「もしかして、ハンサ鳥の荷車を手に入れるの?」
「ああ」
良かった。これ以上ガニ又歩きをしていたら、股関節がバカになるところだった。
中に入ると、天井に付いた薄暗い明りが点々と室内を照らしていた。光の筋には埃が舞っていているのが見て取れ、壁の上部に換気のためか小さな穴が一定の間隔を開けて規則正しく並んでいる。
奥に木製の荷車が1台と囲いに入ったハンサ鳥が2羽、そして、男が1人荷車に寄り掛かって立っていた。あれがレオの言っていた『伝手』だろう。男がこちらに近寄ってきて、影になっていた顔があらわになる。それと同時に、あたしの口から甲高い悲鳴が飛び出しかけた。飛び出さなかったのはひとえに、レオの手のひらがあたしの口を塞いだからだ。
目の前に現れた男、それはなんとキツネ男だった。
「お前は!」キツネ男は目を見開いて叫び、ドスンと床に尻もちをついた。
「もが!もがもが!」あたしは人差し指を突きつけてもがもが言った。
レオに口を塞がれていたのはラッキーだったと言える。あたしが発した言葉が『ギャア!お化け!』だったからだ。あたしに中では、キツネ男はカエル男同様、すでに死んだことになっていた。
「クソックソックソッ、そんな恰好してるから気付かなかったじゃねぇか!」
「2人とも落ち着け」レオが言った。
キツネ男は死んでなかった。それどころか跳梁跋扈、自由に歩き回っていたのだ。お腹のあたりで怒りが沸々と温度を上げ、裏切られた痛みと混ざり合って、溢れだす場所を探してうねりを上げはじめていた。レオは、酒を飲み始めたキツネ男に薬を盛ったと言っていた。監禁部屋に閉じ込めて来た、とも。それがどうだ。今キツネ男はあたしの目の前にいて、ツバを飛ばしながらがなり立てている。
落ちつけ?落ちつけるわけないじゃない!目の前にいるのは誘拐実行犯のリーダー格なのだ。バカにしながら厭らしい目であたしの胸を覗き込み、ハリスを殴り倒して鼻血を出させ、必ず変質者に売り払うと息まいていた最低な男だ。
そろり、と手が離れた瞬間、あたしは首をめぐらせキッとレオを睨んだ。「騙したのね!」
「どういうつもりだ!何でそのクソ女を連れて来たんだ、ちくしょう!」キツネ男が引きつった顔で喚く。
レオは首を僅かに傾げた。あたしはジェマを背にかばうように体を半歩ずらし、レオとキツネ男から距離を取ろうとじりじりと後ずさった。と、背後から、あれぇ、と不思議そうな小さな声が聞こえ、ジェマがあたしの背中からするりと飛び出して、キツネ男の元に走り出した。
「行っちゃダメ!」慌てて伸ばした手は空を切り、顔から血の気が引く。
「おじちゃん!」
「うわ、くそっ、くっ付くんじゃねぇ、クソガキ」
キツネ男の罵詈に怯むことなく、ジェマは嬉々とした顔で抱きついている。
「・・・ジェマ?」
「おねえさま、このおじちゃんはね、いい人だから大丈夫。だぁれもいない時はすっごくやさしかったの。もう少しの我慢だって言って、すっごくおいしいビスケットとかチョコレートをくれたのよ」そう言ってジェマは、『ねっ』とキツネ男に笑いかける。
いい人?誰が?キツネ男が?ウソでしょ?あたしの頭は最大にこんがらがっていた。これはどう考えたらいいの?『いい人』の定義とは一体何だっただろう?あたしが知る限り、その言葉は『親切』とか『温和』とかと近しいはずだ。間違っても、『暴力』や『短気』とは相いれない。
答えを求めてキツネ男を見るが、キツネ男はジェマを張り付かせたまま、心の底から嫌そうに顔を歪めてあたしを睨み、そして、何事か―――おそらく悪態や罵詈の類―――を呪詛のように呟いている。『いい人』という言葉は今や、喉の奥に閊える異物のように飲み込むことも消化することも困難なものとなっていた。
「・・・説明してくれるわよね」あたしはレオに向き直った。
「ダギーがあんたやその子供と敵対することはない」レオは、あたしの帽子をひょいと取って顔をしかめた。「この帽子はあんたにあんまり似合ってないな」
そんなことはどうでもいい。
「・・・2人は仲間なの?」
「いいや、仲間じゃない」レオが肩をすくめた。「あんたと同じだ」
「同じ?」
「ああ、ダギーも俺の依頼人だ」
依頼人、その言葉の意味が脳みそに届くまでに10秒ほどの時間が必要だった。そして、更に頭をこんがらがらせたあたしは、ぽかんと口を開けて茫然とレオを見つめ続けるしか出来なかった。
「おい、『も』ってぇのはどういうことだ」キツネ男がレオを睨む。
「どうもこうもない。アンは俺の依頼人になった。一緒にここを離れる」
「なっ・・・一緒にだと?俺がそのクソ忌々しい女を教会に連れてったのは何でだと思ってやがる!」
レオが肩をすくめる。
「・・・何でよ?」絶対にいい理由じゃないことは確かだ。
「時間稼ぎだよ」キツネ男は吐き捨てるように言った。「『乱』でお前が渡ってきたのが分かった時、『しめた!』と思ったぜ。『渡り人』なんて商品としちゃかなりでかい山になるからな。それこそ誰もが喉から手が出るほど欲しがるもんだ。そんな機会をあのクソババアが逃がすわけねぇ。売り先をボスと相談するにもそれなりの時間がかかると踏んで連れて来たのに・・・依頼人だと?ふざけんじゃねぇぞ」
「つまり、あたしを利用しようと考えてたってこと?」お腹でくすぶっていた火種がチリチリと再燃しだした。
「クソ猿みたいに飛びかかって来た時は、さすがに考え直そうかとも思ったがな」
「あんたは目的のためなら他人はどうなっても構わないってわけね」ギュッと握りしめた手のひらに爪が食い込む。
「監禁されて搾り取られるか、変態行為の道具になるか。どうせこの国の『渡り人』の扱いなんてどうしようもねぇんだ。保護だろうが売られようがどの道似たようなもんだ」
ぞわり、と肌が粟立つ。ハリスから聞いてはいたものの、数多の犯罪を犯してる男の口から聞くのは、胸に圧し掛かる重みが違った。あたしは楽観的に物事を考える気がある。取りあえず何とかなるだろう、と。それは普段はいいものだが、暗い穴に嵌り込んで初めて、世の中には何ともならないことがあるのだと思いだす。あたしは心の底から、ハリスとレオに出会った幸運に感謝した。
「あんたの依頼って何なの?」
キツネ男は顔を強張らせ、堅く口を引き結んだ。そう、言いたくないってことね、こんちくしょう。
「いいわ、それならレオに―――」
「守秘義務がある」あたしが言い終わる前にレオが口を開いた。「俺から言えることは何もない」
「何よそれ!」あたしは目を見開いた。
「依頼、取り下げろよ」キツネ男が言った。
「イヤよ」あたしは噛みつくように言った。
「途中から割り込んできたのはお前だ」
「順番なんて関係ないはずよ」
「こっちは色々せっぱつまってんだ。お前みたいなグズで貧相な間抜け女に付きまとわれたくないね」
「・・・なんですって?もう1回言ってみなさいよ」あたしの喉から低い声が漏れた。
「その通りだろうが、1人で荷車にも乗れねぇくせに」
「あれは鎖のせいよ!あんなのがくっ付いてなかったらちゃんと乗れたわよ!ほとんどあんたのせいじゃない!」
「お前がとんまなだけだろ、キーキー喚くんじゃねぇよ!」
「そっちこそ男のくせにピーピーうるさいのよ!あたしに股間を蹴られて泣きべそかいてたくせに!」
「あんなのは男だったらあたり前だ!ふざけんじゃねぇぞ、この後ろ前女!」
「暴力セクハラ男」
「うれせぇ、モジャモジャ頭」
「短足傲慢くるくるパー」
「クソして寝ろ」
「腐れてもげろ」
「・・・そこまでだ」レオがこめかみを押さえながら間に入ってきた。「気に入らないからって依頼人同士で足を引っ張り合うのは勘弁してもらいたい」
「仕事の邪魔をする気はないけど」あたしは言った。「でも、一緒に行くなら納得できる説明が欲しいわ。こんな風に敵や味方がコロコロ変わるなんて安心できないもの」
「俺からは何も言わない。・・・だが、2人が少し話し合うのはかまわない」レオはそう言ってあたしとキツネ男を見た。
「そんな・・・こんな女と話し合いだと・・・」キツネ男の顔から驚愕が滲む。「大体こんなことになってるのは、他で勝手に依頼受けたレオのせいじゃねぇか」
「俺の仕事に口を出される覚えはない」レオの低い声が静かに響く。「あんた達が無暗やたらと騒ぎ立てなければどちらも完遂出来る」
そう言ってレオは、目をまん丸くさせてあたしとキツネ男のやり取りを見ていたジェマを抱き上げ、荷車の中に消えて行った。残ったのはあたしとキツネ男。キツネ男は壁を睨みつけ、あたしは床を睨んでいた。どちらも苦虫を噛みつぶしたように不機嫌で、眉は限界まで寄っていた。
レオの言ってることはたぶん正しい。そう、これはあたしが口を出すようなことじゃない。依頼を引き受けるかどうかを決めるのはレオなのだ。いくら声高に叫ぼうが、すでにキツネ男がレオの依頼人なのは変わらないし、あたしだって身を引く気はない。そして、キツネ男の言い分も理解できる。それはあたしと全く同じだからだ。
妥協。折衷案。折り合いを付ける。頭の中に浮かんだ言葉の不快さにあたしはグッと歯を噛みしめた。
口火を切ったのはキツネ男だった。
「わかった、依頼は取り下げなくていい。だが、俺の視界に入るな」
「無理に決まってるでしょ」あたしは、小さな荷車を指差して言った。「バカじゃないの」
「ホントに口の減らない女だな。俺は御者台に座る。それならお互い顔を見ずに済む。お前の依頼は、国外に連れてってもらう、大方そんなとこだろう。俺もここにいちゃ色々とまずいんだ」
キツネ男の依頼内容が何なのかいまいちピンとこない。けどそれとは別に、この男を信用できない一番の理由があたしの中に渦巻いていた。
「攫った子供を助けたから?」
「ああ」
「レオに依頼して」
「そうだ」ツネ男は煩そうに顔を顰めてた。
「・・・シスターエドナを騙した」あたしの心臓はバクバク音を立てていた。
「そうだよ」
「組織も・・・裏切ったものね」
この考えがもしも合っていたとしたら、ここにキツネ男がいる、その事実とあたしの中にあった疑問の1つが結びつき、しっくりこなかったパズルのピースがピタリと嵌る。
「相棒も殺したわね」
背中を冷たい汗が流れた。震える声で紡がれた自分の声がやけに大きく耳に届き、キツネ男の目が急激に険しさを増した。




