29.スラム
あたし達は、広場から無数に伸びる路地の一本に入った。角を曲がるたびに道幅が細くなっていき、徐々にゴミが目に付くようになってきた。建物の外壁沿いには何なのか知りたくもない水溜まりが出来ている。熱くて重たい空気の中にツンとした悪臭が漂っていた。
薄汚れた服を着た子供達が、空っぽの目をして地べたに座り込んでいる。目つきの悪い男達が、こちらを窺いながらヒソヒソ何かをしゃべっている。派手な布を胸と腰に巻いた扇情的な女達が、開いたドアから値踏みするようなぶしつけな視線を寄こしている。貧困、不穏、猥雑。そのどれもが、針を刺したら破裂しそうな緊張状態の中で混ざり合い、混沌とした雰囲気を生み出していた。
「みんな見てるわ」あたしは小声でレオに言った。
「気のせいだ」
「そんな、気のせいなんかじゃないわよ」
得体の知れない不安があたしの頭を占拠し、心臓がドクドクと体に響いている。目だけで辺りを観察していると、左端の壁に寄り掛かっている男と目が合った。そいつは、ニヤニヤとあたしを見ながら、自分の股間をごそごそとまさぐり始め―――・・・あ、え、待って、ウソでしょ、ファスナーを・・・・・・おえぇぇ!
「気にするな。よそ者を警戒しているだけだ」
「気にするな?そんなの無理だわ、あれを見てよ!」
「・・・あんたが言ってるのは、自分のものを振り回してる奴のことか?」レオが横目で男を確認する。
「プロペラみたいにグルグルしてるわ!」あたしは、その男の下半身から全く目がそらせなくなっていた。「きっとその内もげて飛んでくるわ」
レオはあたしをチラリと見てため息をついた。「下手に反応するな。ああいうのは、直接手を出してこない。人形だと思えばいい」
あたしが知ってる人形は、可愛いかったり、カッコ良かったりするものだ。時に、怖かったり、面白かったりするものでもある。
でも、あの男にはそのどれも当て嵌まっていなかった。
「あれは全然可愛くないわ」
ポソリと呟くと、レオのまゆ毛が僅かにつり上がった。
「もしあの男が可愛く見えるなら、腕の治療の前に目を治す必要があるな」
それから5分程歩いたところで、あたし達は建物の中に入った。建物内は外より若干涼しい。黒いドアの先は狭い階段になっており、登りきったところにまた黒いドアが現れた。
「ここは?」
「この街で一時的に借りている部屋だ」レオは、カチリとカギを回してドアを開け、あたしの背中を軽く押して中へ入るよう促した。
部屋の中は薄暗く、ちょっとカビ臭い。8畳ほどの大きさで、石の壁に石の床、小さなガラス窓が1つ。シンプルな生成のリネンが掛った木製のベッドと、丸くて足の長い小さなテーブル、引き出しが2つ無くなってる4段チェスト。ベッドの脇には擦り切れて模様の分からなくなったマットが敷かれていた。
レオは、抱えていたジェマをそっとベッドに下ろし、チェストの一番上の引き出しから白い布と茶色いビンを取り出した。
「手当てをしよう。生憎この部屋には椅子がない。悪いが床でいいか?」
床を見る。埃っぽい。ベッドを見る。ジェマが寝ている。あたしは、マットを足で引き寄せ腰を下ろした。
巻かれていたアイギルのTシャツが解かれる。白かったTシャツは真っ赤になっていた。
「・・・よく耐えたな」
「死ぬほど痛かったけど、今はもう痛いのか何なのかよく分からなくなってきたわ。体も熱いのか寒いのか分からないし、左手が体にくっ付いてるのかも定かじゃないわ」
レオは、そうか、と口の中で呟くと唇を引き結んだ。
アイギルは、あの後ずっと半裸だった。子供とはいえ、街なかをそんなカッコで歩くのは嫌だっただろう。
「・・・アイギルには悪いことしちゃったわ。恥ずかしかったんじゃないかしら?」
「気にしないんじゃないか。自ら脱いだんだろう?」レオがニヤリと笑った。「英雄のために」
「あたしは英雄なんかじゃないわ」
「庇ったじゃないか」
レオの目線につられ、ジェマを見る。
「あれは・・・本当のことを言うと、実際に撃たれるなんて考えもしなかったのよ」あたしは俯いて言った。唇が震えるのを感じる。「今考えると恐ろしいわ。あんな銃とか・・・殺意に晒されたのなんて生まれて初めてだし・・・良く分かってなかったのよ。だから、英雄とかそういうんじゃないの。あたしは、自分が死んだとしても誰かを助ける、みたいなことは思えない。だって死にたくないもの。痛いのも嫌いだし、苦しいのも辛いのも大嫌いよ」
あたしは、子供に英雄だなんて思われるような素晴らしい人間じゃない。考えなしの弱虫毛虫なのだ。
「あんたが子供を庇って飛び出したのは事実だし、啖呵切ってばあさんのヒゲも引っこ抜いた。十分だ」レオの声には面白がるような響きが含まれていた。
視界の端でレオが動いた。レオの動きを追うように顔を上げた瞬間、心臓がすごい勢いで頭上へと跳ねあがった。
「な、なな何で脱いでるのよ?!」
レオは着ていた黒いTシャツをクシャッと丸め、あんぐりと開いたあたしの口に押し込んだ。
「思い切り噛んでろ。傷口と服とがくっ付いてる。引っぺがさなきゃならん」
顔からザッと血の気が引く。
「大丈夫だ。一瞬で終わる」
レオは胡坐をかいて座り、あたしの腕をわき腹に挟んで固定した。手にはどこから出したのか小型のナイフが握られている。
「袖を切る」
周りの邪魔な布が手際良く取り除かれていく。思ったより痛くない。優しく繊細な手つきに恐怖に見開かれていたはずのあたしの目は、いつの間にかレオの腹筋に吸い寄せられていた。均整のとれた引き締まったお腹。古傷なのか、わき腹に白い線が数本走っている。体毛は薄くて・・・ベルトのないズボンの隙間に影が落ちている。・・・アン、良くないわ、これ以上見るなんてもってのほかよ。
あたしの脳の理性的な部分では、これ以上レオをジロジロと見つめるのはハレンチだと告げていた。でも残念なことに、脳のほとんどの部分は、指笛を吹いて跳ねまわっている。これって正常な反応よね?
「いくぞ」
後は傷口付近を残すのみになり、レオが窺うようにあたしを覗き込む。覚悟を決めて、あたしは小さく頷いた。歯をギュッと食いしばる。くわえたTシャツが小刻みに震えていた。
結果を言うと、あたしはギャッ!と言う声を上げ、もんどり打って倒れ込んだ。名誉の為に言っておくと、布を剥がすのは我慢できたのだ。物凄く痛かったけど、それでも何とか耐え切った。問題はその後だ。レオは、再び血が流れ出る傷口に、茶色いビンに入った液体を一気に注ぎ込んだのだ。痛みが頭を突き抜けて、心臓が何拍か動くのを止め、あたしの目はグルンと裏返った。
気が付いた時には床の上で大の字に伸びていて、傍らにはレオが膝をついていた。
「あたしどうなったの?」
「ちょっと寝てたみたいなもんだ」
「うそよ!気絶したのよ!」あたしは転がったままレオを睨みつけた。「あんなの聞いてないわ。あれは何なの?」
「消毒と傷をふさぐ効果のある薬品だ」
左腕をそっと動かし、体をひねって傷口を見ると、跡はあるものの、傷口自体は塞がっていた。皮膚がくっ付いてる。血も出てない。
「すごい・・・!これどうなってるの?」
「損傷が酷かったから、動かなくなるかとも思ったが、その分だと大丈夫だな」レオがほっと息を吐いた。
「この世界の医療は優秀なのね。あたしが生まれ育った世界にはこんな便利な薬はなかったわ」
この世界は何だかちぐはぐだ。上質な家具や布もあるし、優れた薬もある。『珠』のエネルギーで電気もつくし、シャワーからは水も出る。でも、凶暴なピンクの鳥が引く荷車や石のブロックで出来た街はミスマッチに感じる。
「渡った先の世界の事は詳しく知らないが、『渡り人』がもたらした技術と、元からこの世界にあったものが交ざり合って、色々なものが研究され、生み出されている。でも、その中には再現すらできないものもあるらしい。単に、優れたものもあれば劣っているものもあるって話だ」レオが言った。「この薬だって万能じゃない。切れた血管を止血して、皮膚を塞ぐだけだ。神経を繋いだりは出来ないし、失った血が戻るわけじゃない。その傷だと跡も残るだろう」
「それでもすごいわ。麻痺も痛みもさっきより大分ましになったもの。腕に出来るちっちゃな傷跡なんて大して気にならないわ」
「その傷は薬品で一時的に塞がってるだけだ。皮膚同士が完全につくまではこれを巻いて固定させる必要がある」そう言って、レオが包帯みたいな白い布を腕に巻いてくれた。
「手当てしてくれて、ありがとう。それと、怒鳴ってごめんなさい」
「あんたは俺の依頼人だからな」レオは肩をすくめ、チェストから新しい黒いTシャツを出して身に着けた。
「でも、薬のことは言っておいてくれたら良かったのに」あたしは唇を尖らせた。
「あれは、大人の男でも卒倒する薬だ。言わない方があんたの為だと思ったんだ」
「レオも・・・あなたも卒倒する?」
「そう思うか?」レオはあたしを見てにんまりと笑った。
自分は倒れたりしないと言いたいのだ。そして、それはきっとその通りなのだろうと思った。