2.草原
「・・・あっづい!」
あたしは、右手で額を拭った。体中から汗が噴き出している。じっとりと肌に張り付くTシャツがものすごく気持ち悪い。
体を動かすのが億劫なほど関節が痛くてだるい。まずいわ・・・たぶん熱くて倒れたのだ。たぶん脱水症状を起こしている気がする。どのくらい気を失ってたのかしら?寝過ぎた時みたいに頭がガンガン痛む。あたしは、軽いため息と共にうっすらと目を開けた。
「もう少しで死んじゃうとこ、ろ、だった・・・ん・・・?」
そう呟いたあたしの目の前には、雲ひとつない抜けるような青空が広がっていた。
「・・・え?」
頭の中で、車内や空港の映像がクルクルとまわり、空の青さにとってかわる。
そして、ぽかんと見上げる目に飛び込んできたのは、仲良く並ぶ太陽と・・・太陽?
「太陽が、1こ、2こ・・・あれ、2こ?・・・2こ?!」
勢いよく体を起こすと、頭に鋭い痛みが走った。
「・・・〜〜〜!」
響くような痛みを紛らわせるために、そっと息を吐きながら右手でこめかみを軽くおさえる。あれ?何か・・・顔に触れる手に違和感を感じる。どこか、いつもと感覚が・・・違わない?何だろう、変な感じ。
違和感の正体を確かめようと、恐る恐る右手を顔の前で広げる。
「あれ?ちっさい・・・?」
あたしの両手は、あたしのはずの両手は、どう見ても3、4歳の幼児のものだった。
にぎにぎと手のひらを開いたり閉じたりしてみる。
「・・・えぇ!!待って、ウソでしょ?!」
頭の痛みも吹飛んで、心臓バクバクさせながら足やら顔やらを確認する。小さいわ・・・ものすごく。
あら不思議。寝て起きたら体が縮んでいた。
いやいやいや、待って、ナイナイナイ!!
成長期に寝て起きたら背が伸びてた、なんて話は聞いたことがあるし、お年寄りは昔より背が縮むっていう話も良く聞く話よね。でも、寝て起きたら子供になってたなんて聞いたこともないし、受け入れることなんて到底出来そうにない。
全く理解できないまま、はた、と周りを見渡す。
あたしがいる場所は、草原だった。前を向いても、後ろを振り返っても、360度ぐるっと見渡す限りどこまでも続く青々とした草原が広がっている。
顔から血の気がさっと引いた。自分の頭が目の前のことに全くついて行けてない。真っ白。こういうのを『頭が真っ白になる』って言うのね・・・なるほどねー・・・などと呆けながら、もう一度自分の状況を確認する。
ずいぶんと小さくなった体と、あるはずのない2つの太陽、そして、その光を受けてキラキラと輝く、膝丈ほどの細い草。時折吹く湿った風に申し訳なさそうに揺れる。
何なのこれ。
脳がぎこちなく記憶をたどる。・・・お父さん・・・車・・・空港・・・。
ごくりと喉を鳴らすと、飲み込めない程の空気の塊が胸を落ちていった。指先が小刻みに震え、心臓が耳の中にあるようにうるさい。
・・・車に乗ってた。エアコンは壊れてて、そうよ、ものすごく暑かった。あの時、今よりももっともっと暑くって・・・それで?
・・・べったりとした黒と刺すような光が目の前にちらついて、その後は・・・わからない。
死んだ?
声に出さず呟く。
恐怖で全身がすくむ。
きっと夢だ。ギュッとほっぺたをつねってみる。痛い。現実?いやでも、そもそも夢の中に痛みはあるの?痛みを感じそうな夢は元より記憶がない。
あたしがたまに見る夢では、高いところから落ちると必ず下にトランポリンがあったりする。ぽよんぽよんと跳ねているうちに、あたしは地面ギリギリの超低空で飛べる様になる。犬かきのように空気をかくと、とんでもなく遅いのろのろ飛行で進むこともできた。
そうじゃない、違う。そんなことは今どうでもよくって。小さくなった手をぎゅっと握りしめる。
知らない内に涙が頬を伝った。
あたしは、たぶん。
死んでしまったんだ。
そうじゃないと説明がつかない。突然小さくなったおかしな身体。バカみたいな2つの太陽。見たこともない知らない場所。
空っぽの胃から胃液がこみ上げ、その場で吐いた。
お母さんの言うことに耳を貸さず、お父さんに怒られるとウツウツとしながら、蒸し風呂みたいな車の中でバカみたいに死んだんだ。
・・・妹は、暗黒の箱を黙って捨ててくれるだろうか。それに関しては全く自信が持てない。
こんな状況で気になることがそれってどうなんだろう。本当にバカみたい。笑える。自分の頭の悪さも、呑気な思考回路にも。
声に出して笑おうとしたら、乾いた音が漏れただけだった。涙が次から次へと溢れ出し、体が熱くて息が詰まる。あたしは、よつんばになって子供みたいにわんわん泣いた。
どのくらいたったんだろう。散々泣いたせいで頭がぼうっとする。
2つの太陽は、空を真っ赤に染めて地平線に沈もうとしている。
あたしを見つけるのはお父さんだろうか・・・。その前に警備員さんよね。お母さんも飛んできて、普段は憎たらしい美樹も泣くよね。
申し訳ない気持ちと後悔ばかりが浮かんでくる。
面倒くさがらずにお父さんにマッサージ、もっとしてあげればよかった。いつも「普通かなー」なんて言ってたけど、お母さんのご飯おいしいってもっと言えばよかった。美樹のことももっと可愛がってあげればよかった。
ごめん。ごめんね。ごめん―――
胎児のようにくるりと丸まって、ぼんやりと、これからどうしたらいいのだろうと考える。日は沈もってうとしてるけど、あたしは動く気力さえ湧いてこない。このままここにいていいんだろうか?それに、何で誰もいないの?
大体、ここがよく言う『あの世』なら、神様とか閻魔様とかがどこかにいてもいいんじゃない?何だか腹が立ってきたわ。そりゃあ、生きてる頃から神様仏様なんて信じてなかったけど・・・。
お祈りって言えるようなものは、せいぜい試験の前の「赤点じゃありませんように!」とか、お腹が猛烈に痛い時の「もうアイス食べないので、今すぐ治してください!」程度だった。
でも、天使とかが迎えに着たりしないものなのかしら?死後の世界ってこんな感じなの?永遠にここで一人ぼっち、とか?
ぐうう。
お腹が鳴った。
「お腹は減るんだ・・・なんで?ハハハ、笑える」
そう言いつつまた泣きそうになる。しかし、目がチクチクしてもう涙は一粒も出そうにない。あたしは、大きく息を吐いた。散々泣いて落ち着いたせいか、空腹ばかりに意識がいく。
「おなか減ったわ・・・」
飢餓道とかゆう地獄があると、うっすら何かの本で読んだことがある。そこに堕ちると、ずっとお腹が減っているらしい。寝ても覚めても空腹なんて最悪だわ。
力の入らない脚で立ちあがり、ズボンのポケットを探る。後ろのポケットから見覚えのない青い飴が1つ出てきた。
こんなの入れたかしら?
そう思いつつ少し嬉しくなって、すぐさま口に放り込んだ。
ドンッ!!!!
口に入れた瞬間に、胸に重い衝撃が走った。
「っ・・・!」
苦しくて痛くて、死ぬ、と思った。
あ、いや、もう死んでるのよね。
そして、
あたしの意識はまたもや途切れた。