12.お風呂
シスターエドナは、入ってきたドアに再び吸い込まれていった。あたしは、どうやらこの世界初のカリスマネイリストにはなれないようだ。カッコイイパティシエにもなれないし、瞑想と健康の伝道師にもなれない。
耳の中で心臓がドクドクといっていた。あたしの胃の中を無数のウニがゴロゴロ転げまわっているように感じる。
シスターエドナは、あたしのどの能力にも魅力を感じなかった。目下、あたし達は売られようとしている。とんでもなく破廉恥な変態どもに。
あたしは、襲いかかるパニックの波を何とか抑え込もうとしていた。どんなことをしてでも、絶対に逃げなければ。まずは、冷静になって、頭の中を整理するのよ。
子供が・・・1、2・・・3人。ハリスは元気だからいいとして、レオの抱えてる子は立って歩けるだろうか?奥にいる子は、少し前からここにいるようなことを言っていたけど・・・もしかしたら、衰弱しているかもしれない。1人はあたしが背負うとしても、2人は厳しいかもしれない。
あたしはハリスを見た。ハリスの背は、あたしのお腹あたりまでしかない。これじゃあ子供を背負うのは無理よね。
抜け出す経路を探さなければ。窓?この部屋にはないけど、ほかの場所なら・・・いえ、そんな簡単に開くようになっていると思えない。鉄格子のようなものが嵌まっていてもおかしくないわ。そうなると・・・入口?
あたしは、教会の扉を振り返った。今はしっかりと閉じられているが、カギは内側から開けられるだろう。そうね、確か・・・扉から門まで大体50メートル。子供2人抱えて走るしかない。
扉を睨んで考え込んでいると、ハリスに腕をつつかれた。
見ると、カエル男が祭壇の後ろのタペストリーをめくり上げていた。そこは、隠し扉になっていて、キツネ男がカギを鍵穴に差し込んでいるところだった。
「入れ」とキツネ男。
ハリスは、緊張からかピリピリしているように見える。あたしは肩にぽんと手を置き、安心させるようにニッコリ笑う。ちょっとばかり、ぎこちなく引きつった笑みになってしまったのを自分でも感じたけれど、そこは仕方ないわよね?だって怖いんだもの!
「大丈夫だ。心配するな」ハリスがニヤリと笑って、手をあたしの手に重ねる。
残念だけれど、『頼りにしてるわ』とはならなかった。
扉をくぐると、横に細長い廊下のような部屋に出た。幅2メートル、長さは10メートルくらいで、深緑色の絨毯がひかれている。そしてその両端に扉が1つずつ。
全員入ったところで、キツネ男がまたドアに鍵をかけた。
「ジル、その女と子供を風呂場へ連れて行け」キツネ男はカエル男に言った。
「・・・俺が?」カエル男は、あたしの顔に視線をさまよわせた後、キツネ男に訊いた。
「そうだ。俺は絶対にその女には近づかないからな。レオは風呂の場所を知らねぇし、お前しかいないだろ」キツネ男がカエル男の肩を宥めるようにぽんと叩く。
「・・・そっちの子供は入れなくていいのか?」
「本当はきれいにした方がいいんだが・・・あまり具合が良くねぇから、まぁいいだろう。レオ、一緒に来い。奥の部屋だ」
キツネ男とレオは、どんよりしたカエル男を残し、子供を連れて右の扉に消えて行った。
「行け」カエル男が、諦めたように左の扉を顎で指し、あたしとハリスは足元の鎖をジャラジャラいわせながら歩き出した。
扉を出て右に曲がった先に同じような扉があり、開けるとそこは脱衣所になっていた。正面にお風呂場へと続くガラス戸。その右に木製の扉が1つ。今のところ窓はない。
「トイレはそこだ」
カエル男は、右の扉を指差してそう言うと、棚から白いタオルと子供用の白い服を取り出し、ハリスに渡した。そして、耳の後ろをボリボリ掻きながら、嫌そうにあたしを見た。
「お前用の着替えは置いてない。まぁ着替えなくてもいいだろ」
「ちょっと、あたしのTシャツは血だらけなのよ。ヒドイ臭いもするし、着替えは絶対に必要よ」
「ないもんはないんだ」
「・・・こんな血だらけの服で臭かったら買い手がつかないとかなんとか、シスターエドナも言ってたはずよ」
「クソッ、そう言ったって―――」カエル男は、ハッとしたように隅に置いてあったカゴをゴソゴソと探りはじめた。「ああ、これなら着れるだろ」
カエル男が渡してきたのは、くしゃくしゃに丸められたモスグリーンのワンピースだった。それはシスターエドナが着ていたものとよく似ていた。
「・・・これってシスターエドナのでしょ?」
「そうだ」
「これがあたしの着替えなの?」
「今よりましだろうが」
あたしは自分のTシャツを見下ろした。血が乾いてカピカピになっている。赤と言うより、茶色っぽく変色していて、斬新な模様に見えなくもない。シスターエドナのワンピースとどちらがましか、あたしには判断が附き兼ねた。
「それ、洗濯してないように見えるんだけど」
カエル男は、ワンピースの臭いをクンクンと嗅いだ。「大丈夫だ」
あたしは、目を細く眇めた。出来れば、シスターエドナのワンピースは着たくない。
だって・・・考えてもみて?もしも、万が一だけど・・・イボの菌というものがあったとして、それがこのワンピースにへばり付いていたら?
あたしはブルッと震えた。鼻の両脇に毛の生えたイボが出来たら、あたしはこの先どうやって生きて行けばいいの?それに、イボはどこに出来るか分からないのだ。一番出来て欲しくないところに、嫌がらせのように出来たりする。
もしもイボが胸に出来たら?どっちが乳首か分からなくなるかもしれない。もちろん、あたしには分かる。自分の体だし。でも、男の人はどうだろう?乳首だと思って吸いついたのがイボだったら・・・その時、あたしは何て言えばいいのだ?
「やっぱりそれは着たくな―――」
「その服でいいんじゃないのか」あたしの言葉をハリスが面倒そうに遮った。
「その服って?」
「シスター服だ。そんなに汚れてるようにも見えないが」
「ダメよ!あれを着ると・・・恐ろしい事が起こるのよ」
ハリスは怪訝な顔をした。「恐ろしい事?」
「そう。あれを着ると・・・増えるのよ、乳首が」
カエル男が、持っていたワンピースを放り投げた。
ハリスは、目を閉じて静かに息を吐いた。「・・・一応訊くが・・・なんでだ?」
「あれには、イボの菌がへばり付いてる可能性があるわ」
「・・・イボの菌?」ハリスの口が引きつった。「・・・その菌で、お前の乳首が増えるのか?」
「そうよ。しかも、毛の生えた乳首よ」
あたし達は、床に落ちたワンピースを見つめ続けた。
「とにかく・・・白い服は小さいサイズしか置いてねぇ。お前が着れそうなのはそれだけだ」カエル男が言った。
・・・たぶん、ここには、攫ってきた子供の着替えしかないのだ。これまでも何人もの子供たちが攫われ、変態たちに売られてきたのだろう。考えると虫唾が走った。
「・・・何人?」
「は?」
「今まで何人の子供を変態売ったのよ?」
「・・・そんなこと知ってどうする」カエル男が厭らしく笑った。
「いいから答えなさいよ!」あたしは、シスターエドナのワンピースを床から引っ掴み、カエル男の目の前にぶら下げた。カエル男は壁際まで後ずさった。
「おい、俺に近寄るんじゃねぇ、クソッ!」
正直に言うと、あたしは今、自分の未来さえよく見えていない。状況を見て、何としてでも子供たちと一緒に逃げ出そうという、漠然とした思いがあるだけだ。とりあえず、あたしとハリス、具合の悪い子供と奥に掴まっているらしい子供の4人が助かること。
たぶん、これは正しいはずなのだ。いくらあたしがええかっこしいでも、それに・・・色々と考えが足りなくても・・・すべてを救うことが出来るなんて思っていない。それは、ただのナルシストで、失敗して全てがダメになる可能性がある。気持ち悪い自己憐憫に浸る気も更々ない。
ないけれど。
あたしは奥歯をぐっと噛みしめた。何も出来ないの?本当に?直接何か出来なくても、ほんの少しの情報ぐらいは知ることが出来るんじゃないの?
「ハッ教えたところでお前にはどうすることもできねぇよ!」
「それでもよ!」
「いいぞ、教えてやる。4人だ」カエル男が厭らしく笑う。
「いつ?」
「3か月くらい前に2人、その1月後に2人。4人とも俺がエスタニアとリシェルから連れてきたんだ。フフッ・・・まぁもうこの世にいないだろうがな」
「最低だわ」あたしの目の前が真っ赤に染まった。「あんたたちは本当に最低よ」
「どこの誰が金を出した?」後ろからハリスの声がした。
「何だよ、クソガキ。自分が売られる先が気になるのか?」
「まぁな」
「残念だが、これ以上は知らねぇよ。客の相手はシスターエドナだ」
お風呂に入れてない・・・。『お風呂』続きます・・・。