あるバスの運転手
今回はバスの運転手さんになってみました。
『次は街道四つ角、街道四つ角です』
車内アナウンスが流れる。
ピンポ~ンとボタンが押される。
「はい、次止まります」
俺はマイクに向かって喋る。
大きな交差店に近づいて右折レーンに入る。
カチッカチッとウインカーの音が響く。
信号機が右折表示になる。
「左よし、下よし、右よし、発車します」
指差し確認をして走り始める。
慎重に右折をしてから三百メートル程先にバス停がある。
左ウインカーを出して左ミラーを確認する。
安全を確かめてからハンドルを軽く左に切る。
バス停の前で上手く止めてドアを開ける。
「ありがとうございます」
料金箱の横を通る客に向って礼を言う。
「ありがとうございます」
一人ひとりに声を掛ける。
「ありがとうございます」
かったりいな、さっさと降りてくれ。
「あ、申し訳ありません、料金が不足しているようです」
料金箱がエラーを表示している。
「なんでだよ、カードの残高あるだろう」
「申し訳ありません、不足しているようです」
「ふざけるな、もう一度通すぞ」
制止する暇も無く、客が読み取り機にカードをかざす。
当然残高は0円になっている。
「なんでだよ、昨日チャージしたばかりなのに」
「そう言われましても」
「あなた、それ私のじゃない?」
「えっ?」
「これがあなたのでしょ」
奥さんらしき人が別のカードを手渡す。
そのカードをかざすとエラーは表示されなかった。
「これでいいんだろ」
そう言って客は降りていった。
「ありがとうございました」
ふざけんなよ、てめーで間違えたくせに。
「すみません」
奥さんらしき人が頭を下げて降りる。
「ありがとうございました」
旦那らしき客はこっちを見ながら何か言って歩きだす。
奥さんらしき人と眼が合うと、頭を下げられた。
ったく、あれじゃ奥さん大変だろうな。
バス停で待っていた客が乗車し終えるのを待つ。
「ドア閉めます」
俺はボタンを押してドアを閉める。
「左良し、下良し、右良し、発車しま~す、お掴まり下さい」
安全確認をして発車させる。
ゆっくりと亀が歩くみたいに、ローからセコンドに、セコンドからサードにギアを変える。
ボタンを押してアナウンスを流す。
『次は国道上、国道上でございます』
ピンポ~ンとボタンが押される。
「はい、次止まります」
マイクに向ってしゃべる。
なんだかなあ、今日はやけにかったるい。
大体、さっきの客もふざけてるよな、自分で間違えてて逆切れかよ。
まったく自分勝手な奴ばっかりだ。
今日は車庫を出るときから気分が悪かったんだ、小林(運行管理者)が俺の配車と立花の配車を間違いやがるから、馴れない車両で点検に時間を食った挙句に、むちゃくちゃ慌てて出庫したからコーヒー飲むのも忘れちまった。
駅に着いたら待機時間にコーヒー飲むぞ。
「停車します、お掴まりください」
またここの渋滞かよ、少しは考えて道路作れっていうんだよ、毎日こんなに混んでるんだから、改善とか考えないのかよ。
必ずと言っていい程、毎日渋滞する交差点。
ここでどれだけのタイムロスを食らうか、また文句言われるんだろうな、時刻表通りに走れないのは俺のせいじゃない。
案の定とろとろ進んで、五分遅れの到着になる。
「ありがとうございました」
年寄りは降りるのに時間を食う。
婆さんが降りると、あんちゃんとオヤジが乗って来た。
俺を睨みつけながらオヤジは奥に進んだ。
ふざけんなよ、俺を睨んだって早く走れる訳じゃないんだよ。
くそっって思いながら安全確認をする。
「発車しま~す、お掴まり下さい」
一般車に邪魔されることもなく走り始める。
『次は国道下、国道下でございます、流行に敏感なヘアーサロン、マミ美容室はこちらでお降りください』
ここでは降りる客がいないようだ。
バス停が近づくと人が立っているのが見えた。
「止まりま~す」
安全確認をしてバス停で止める。
お兄ちゃんが乗ってくる。
「あ、後払いなので、チケットをお取りください」
「え?」
「そちらのチケットをお取りになって、降車時に料金といっしょに出してください」
「ああ、先払いじゃないんだ」
「はい」
「変わったの? この前乗った時は先払いだったのに」
「いいえ、以前から後払いです」
「そうなんだ」
いるんだよな、こういう奴、思い込みで言って来やがって。
朝と夕方だけが先払いだっての、ちゃんと時刻表のとこに書いてあるってんだよ。
「左良し、下良し、右良し、発車しま~す、お掴まり下さい」
やっぱり今日はだめだ、普段だったらこんな奴にいちいち腹立てないんだけどな。
とにかく事故だけ起こさない様に気をつけよう。
『次は警察署前、警察署前です』
ピンポ~ン。
「次、止まりま~す」
ここが面倒なんだよ、止めるのはまだいいけど、発車する時が危ないんだよな。
交通量は多いし、信号は近いし、なんだってこんな所にバス停立てたんだ。
嫌でも止まらないといけない。
安全確認をしてバス停に止める。
扉を開けると客が運賃を払って降りる。
「ありがとうございまた」
三人が降車して二人が乗車して来た。
「左良し、下良し、右良し、発車しま~す、お掴まりください」
いきなり飛び込んでくる車両に注意しながら走らせようとした時。
「すみません、降ります!」
中年の夫婦らしい客が、慌てて後部座席から立ち上がる。
「危険です、立たないでください」
マイクに向って言いながら、ブレーキを踏みしめる。
バスは一メートル位動いていた。
「すみません」
料金箱のところで女性が頭を下げる。
俺は怒りを抑えながら扉を開ける。
「なんだよ」
男の方が俺に向って言って来た。
「危険ですので、今後はご注意ください」
「客に向ってなんだ」
「お客様の安全を守るのも私の仕事です」
「余計なお世話だ」
他の乗客が冷たい視線を送っている。
夫婦らしい客は、あわてて料金を払って降車した。
改めて安全を確認してからバスを発車させる。
まじふざけんなよ、こんなの通報されたら俺が被害を受けるだろうが。
路線バスはバス停でしか客を乗降させれない。
俺たち運転手は、法令に縛られた中で乗務している、道交法はもちろんバス特有の法令も守らなければならない。
だからって下手に客を注意すれば、すぐにクレームだ。
法令を違反しても、客からクレームを言われても、どっちにしたって俺たちにはお座敷が待ってる、注意されるだけならまだいい方だ、下手すれば乗務停止だの運転者登録解除だの、厳しいお裁きが待っている。
ちぇっ、俺たちは奴隷かよ、何されても「はい、そうですか」って言ってなきゃならないのかよ。
ああくそ、やっぱ今日は早退しよう、昼休みに会社戻ったら帰るぞ。
さっさと帰って酒でも飲まなきゃやってらんねえ。
大体これだけ腹立って、事故でも起こしたらどうすんだよ!
そう、事故が一番怖い、職を無くすレベルじゃない、一歩間違えば一生を棒に振ることになる。
その後も俺は「左良し、下良し、右良し、発車しま~す、お掴まり下さい」
と「ありがとうございます」を繰り返した。
安全確認をきっちりやって、事故だけは起こさずに会社に戻った。
「お疲れ様です」
事務所の奴がへらへら挨拶をしてきた。
「今日は帰る、このままじゃ事故を起こしちまう」
俺は点呼場のカウンターに日報を叩きつけて事務所を出た。
「どうしたんですか、困ります」
事務員が後を追って来るのを無視して、洗車を始める。
事務所の奴がどう思おうと構わないけど、運転手仲間から文句は言われたくない。
車両の整備だけはやっておかないと何を言われるか判らない。
「今日はどうしたんですか?」
ベテランの運行管理者が俺のところに来た。
「元々はお前ら事務所が悪いんだろ、朝っぱらから車両を間違いやがって、出庫前から気分悪いんだよ」
「申し訳ありませんでした、報告は受けてます」
「運転手を気分良く仕事させるのがあんたらの仕事じゃないのかよ」
「その通りです」
「だったら、きっちり仕事をしろよ」
「判りました」
「とにかく、今日は帰る、事故りたくない」
「そうですか、無理は言いません。気分転換して、明日また乗務してください」
彼はそれ以上何も言わずに事務所に戻って行く。
大人気ないのは判っている心算だ、でも今日は帰って一杯飲む。
とても仕事していられる気分じゃない。
ベテランの彼には嫌な思いさせたかも知れないな。
俺はそう感じたけど、自家用車に乗って会社を出た。