新しい世界
ローゼンシュタイン伯爵の館は、山霧の中に沈むように佇んでいた。
黒い石壁に絡む蔦、重厚な鉄門、その奥に広がる静かな中庭。
ここが——ナヤの新しい世界だった。
館に仕える者たちは多くはない。
白髪混じりで背筋の伸びた執事。
数人のメイド。
馬番を兼ねた警備隊長と、数名の警備の兵士。
庭を守る庭師と、厨房を預かる料理番の夫婦。
整然とした、小さな城の暮らし。
執事は伯爵の父の代から仕える男だった。
彼はナヤを見る目に、敬意と警戒を同時に宿していた。
「……また旦那様は、危ういものを拾ってこられた」
そう呟くことはあっても、決して逆らわない。
魔術研究を快く思ってはいなかったが、もう諦めているのだ。
それでもその視線には、父親のような心配が滲んでいた。
他の使用人たちは、ナヤに必要以上に近づかなかった。
いじめはしない。
だが、触れてはいけない“主人の大切な物”として扱う。
まるで高価な美術品のように。
それが、幼いナヤにはよくわからなかった。
ある夜、暖炉の火が揺れる書斎で、伯爵はナヤを呼んだ。
「君には、ここで生きる名前が必要だ」
そう言って、穏やかに微笑む。
「エルザ。どうだろう」
口にした瞬間、その名は部屋の空気に溶けた。
「……エルザ」
ナヤはゆっくりと繰り返した。
「今日から君は、エルザ・ローゼンシュタインだ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
生きていい場所を、もらった気がした。
教育は厳しかった。
読み書き、計算、歴史。
そして執事から学ぶ礼儀作法。
ローゼンシュタイン伯爵は彼女にこの土地のこと、世界のことを教えた。
夜遅くまで続く勉強に、何度も眠気に負けそうになったが、
エルザは歯を食いしばって耐えた。
——強くならなければ。
それだけが、心を支えていた。
そしてやがて、村の学校にも通うことになる。
館の馬番であり警備隊長の息子——エルザより少し年上の少年と同じ学校だった。
だがそこは、館よりも冷たい場所だった。
「貴族のペットが来たぞ」
「伯爵の玩具だってさ」
ひそひそ声は、すぐに笑い声へ変わる。
エルザは最初、その意味がわからなかった。
だがある日、女子生徒の一人が言った。
「ペットってさ、可愛がられるけど、人間じゃないんだよ?」
その言葉が、胸を鋭く刺した。
——人間じゃない。
だから近づかれてはいけない。
だから噂される。
だから笑われる。
目の奥が熱くなった。
馬番の少年は、視線を逸らしたまま何も言わなかった。
関わりたくない。
その気持ちがはっきり伝わってきた。
それが、いちばん辛かった。
帰り道、エルザは一人で歩いた。
村の人々の視線が背中に刺さる。
「あの子が伯爵の……」
「気味が悪いわね」
囁きは風のように追いかけてくる。
館の門が見えたとき、ようやく涙がこぼれた。
それでも彼女は走らなかった。
泣きながら、歯を食いしばって歩いた。
——泣いても、誰も助けてくれない。
それを、もう知っていたから。
夜、伯爵はエルザの赤い目に気づいた。
「学校はどうだい?」
エルザは一瞬だけ迷い、首を振った。
「だいじょうぶです…」
嘘だった。
だが、これ以上“守られる存在”になりたくなかった。
伯爵はそれ以上聞かなかった。
執事だけが、静かに彼女を見つめていた。
その目には、怒りと哀しみが混ざっていた。
こうしてエルザは学んでいく。
文明の知識を。
魔術の理を。
そして——
人は、違う者を簡単に傷つけるということを。
この孤独が、やがて彼女を強くし、冷たくし、
“魔弾の魔女”へと変えていくことになる。
霧深い山の館——
そこは守られた楽園であり、同時に彼女の心を鍛える檻でもあった。
滅びゆく魔術と、進み続ける文明の狭間で。
——少女は、静かに復讐者へ育っていく。




