旅路
蒸気の唸りが、海そのものを震わせていた。
ナヤが初めて乗せられた船は、帆船など比べものにならないほど巨大な蒸気船だった。
鉄の腹を持つ怪物のような船体から、白い煙が絶えず空へ吐き出されている。
甲板に立つナヤは、縄こそ解かれていたが、ローゼンシュタインの外套の裾を無意識に握りしめていた。
海を切り裂く水音。
歯車のような音。
すべてが、彼女の知る世界とは別の文明だった。
「怖いかね?」
静かな声に、ナヤは小さく首を振った。
怖いより――理解できなかった。
船の旅はナヤには異世界そのもの、魔法の世界だった。
船旅の間に言葉を覚えた。
ローゼンシュタインは魔術の助けを借りて、ナヤに言葉を覚えさせた。
魔術の助けがあったとしてもナヤの飲み込みははやかった。
船はやがて、旧大陸の巨大な港へと入っていく。
そこには、ナヤの想像を遥かに超える光景が広がっていた。
何十隻もの蒸気船。
林立するクレーン。
叫び声、笑い声、荷車の音、人、人、人。
まるで世界そのものが動いているようだった。
「……これが、科学だ」
ローゼンシュタインは誇るでもなく、ただ事実として告げた。
港に降りると、彼はナヤを仕立て屋へ連れて行った。船出の時に急いでとりあえず着せられた服を脱がされて、新しい服を着せられた。
鏡の前に立たされた瞬間——
ナヤは息を呑んだ。
そこにいたのは、奴隷の少女ではなかった。
深い色のドレスを着た、まるで貴族の娘のような少女。
「……これが、わたし?」
震える声で呟く。
ローゼンシュタインは穏やかに頷いた。
「君は元々、誇り高い存在だ。ただそれを覆われていただけだ」
だが、その背後で。
「……あの貴族、趣味が悪いわね」
「子どもを着飾らせて……それも、新大陸の原住民の子供を…気持ち悪い…」
店員たちのひそひそ声が聞こえる。
ナヤには意味は完全にはわからなかったが、
“侮蔑”だけははっきり伝わった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
ローゼンシュタインは何も言わなかった。
ただ静かにナヤの肩に外套をかけた。
次に乗ったのは、鉄の蛇のような乗り物だった。
「鉄道だ」
蒸気を吐き、地を震わせながら走る車両。
動き出した瞬間、ナヤは思わず声を上げた。
窓の外には、次々と変わる世界。
石造りの都市。
高くそびえる建物。
市場の喧騒。
馬車の列。
やがて、煙突が無数に並ぶ工業地帯へ。
黒い煙が空を覆い、空気が重く濁る。
「どうして、こんなに煙が……?」
「工場だ。文明を動かす心臓だよ」
鉄の蛇は次々と進んでいた。
するとある時急にナヤは恐怖を覚えた。
この先になにか恐ろしいものが待っている…
怖い…
得体のしれない、醜くて恐怖に満ちたなにかが…
気持ち悪い…
ナヤの顔色はみるみる悪くなった。
汗が滲み出る。
動悸が激しくなる。
「大丈夫かい?」
伯爵は様子のおかしくなったナヤに気づいた。
列車の窓の風景は一変した。
焼け焦げた木々…
焼けて崩れた建物…
森の木も葉が焼け落ちて、幹も黒く焦げていた。
そして墓標代わりのたくさん木の杭…
そんなところを列車はゆっくり進んでいた。
ナヤはみた。
窓の外に広がるその光景を。
それは戦争の跡だった。
ナヤにはただの光景ではなかった。
どす黒く濁った空気が見えていた。
彼女の中に、たくさんの恐怖と悲しみと狂気と怒りが流れ込んできていた。
怖い…助けて…こんなのは…こんなのは…嫌だ…
彼女は座席から滑り落ちそうになった。
伯爵がとっさにその体を受け止めた。
「熱がある…大丈夫だよ、今薬をあげるから」
「怖い…助けて…ここは嫌だ…ここはだめ…早く逃げないと…」
肩でなんとか息をしながら彼女はつぶやいていた。
「君にはなにかがわかるんだね…」
彼女を抱えながら伯爵は窓の外をみた。
たくさんの急ごしらえの墓標が夕日を背景にして黒く浮き出ていた。
伯爵にも感じるものがあった。
「あれは…そうだな…」
その光景は精霊の歌が消え、炎と鉄によって血だけが残った土地。
伯爵はそれを見て、静かに言った。
「たくさんの人が死んだ。いろんなものが壊された。文明は繁栄と同時に、破壊も生む。それでも人は進むことをやめない…」
その言葉は、ナヤには難しかった。人が死んだことは分かった。いろんなのが壊されたということも。それは故郷も同じだった。
遠い故郷で起こったことがこんなところでも起こってる。
それも同じ旧大陸の人間同士で。
ナヤ達だけが特別なのではなかった。
長い旅の果て。
列車は山々に囲まれた土地へと入っていく。
霧が漂い、森は深く、陽光さえ遮るほど濃い。
駅から馬車に乗り換える。
長い馬車の旅。
山と森と渓谷が続いた。
途中にいくつかの町や村も通り過ぎた。
そして、山の奥に現れたのは——
大きな石で築かれた巨大な城館。
尖塔が空へ突き刺さるように伸び、
重厚な門が静かに閉ざされている。
ナヤの脳裏に、船旅の途中で見た本の物語が浮かぶ。
夜に現れ、人の血を吸う者の話。
「……おばけの城…」
小さく呟くと、ローゼンシュタインは笑った。
「はは(笑)…恐れることはない。ここが君の新しい家だ」
門がゆっくりと開く。
その奥に広がるのは、古書と薬品と奇妙な器具に満ちた世界。
滅びゆく旧大陸の魔術が眠る場所。
そして同時に——
ナヤが“魔弾の魔女”へと育っていく始まりの館だった。




