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列車の旅

港の古いパブは、昼だというのに薄暗かった。

窓硝子は煤け、潮と煙草の匂いが混じり合っている。

伯爵は背筋を伸ばし、向かいに座る男へ静かに頭を下げた。

「今回の案内役を引き受けてくださったこと、感謝します。──リード氏」

ジョナサン・リードは、泡の消えかけたエールを一口飲み、肩をすくめた。

「礼を言われることじゃありません。金のためです」

簡潔な物言いだった。

元軍人らしい無駄のなさがある。

伯爵はわずかに微笑んだ。

「それでも、です」

リードは伯爵をじっと見た。

何かを探るような視線。

「……何か聞きたいことがある顔だ」

伯爵は否定も肯定もしなかった。

しばしの沈黙のあと、リードが自ら口を開いた。

「軍にいた頃に妻と出会いました…まあ詳しいことは…」

彼の声は低く、だが揺らぎはなかった。

「私は軍人だったので結婚するために帝国辺境騎士団を辞めたわけです。」

その名が出た瞬間、エルザの指先がわずかに強ばる。

リードは続ける。

「仕事を探して都会へ出た。だが、あいつには生きづらかった。視線も、言葉も……。体を壊しました。それで、あいつの村に戻ることにしたんです。」

伯爵は静かに頷く。

先に語ったことに、誠実さを感じていた。

少なくとも、この男は嘘をつくときの目をしていない。

「よく決意なされました。」

伯爵のその言葉に照れくさそうに頭をかいていた。

「それほどでも…」

そう控え目には言ってはいるが、CIの立場で奥さんのためとはいえ、中に入っていくのは勇気がいることだ。伯爵はこの人物というものがますますわかってきた。


「今度は私の番ですね」

伯爵はグラスを置いた。

「私は旧大陸から来たPNの研究者です。エルザは幼い頃に孤児になり、たまたま私が引き取ることになりました。」

リードは黙って聞いていた。

だが、その瞳は深い。

「そうでしたか…」

──孤児だから引き取る。

そんな単純な話ではない。

PNの子供を、旧大陸の貴族が。

しかも彼女は武装している。

あの業者の店での出来事。

逆上しかけた少女の気配。

あれは形だけの護身ではない。

リードは理解していた。

だが、何も問わない。

問題のありそうな人物には見えなかった。

やってることはかなり変わってることだが。

その割にはまともというほかなかった。

リードも最初は怪しんだ。

金のためとはいえ妻子を危険にはさらすのは違う。

今はむしろ、他の連中のほうが一癖も二癖もあって危険に思えていた。


伯爵が静かに言う。

「何か聞きたいことは?」

リードは首を振った。

「今はありません。旅に出れば、たぶんお聞きしたいことはたくさん出てくると思います。お互いに。」

リードはにこやかに答えていた。

その答えに、伯爵はわずかに安堵した。

エルザは、リードを見つめていた。

城の馬番ルーカスの父。

同じ元軍人だった男。

雰囲気が似ている。

無駄な言葉を持たないだからだろうか。

どことなく、信頼できる気がした。



旅の始まりは鉄道だった。

建設途中の駅が終点だった。

そこから食品会社の奥地開拓地へ向かうキャラバンに合流する。

キャラバンの護衛は、帝国辺境騎士団。

最前線の駐屯地まで向かう。

そこから先は、食品会社の雇った警備隊。

その警備の契約を、リードは請け負っている。

だからこそ、彼らはこの列車に乗れた。

伯爵とエルザは一等車のコンパートメント。

リード一家は三等車。

一等車の空気は冷たい。

上流階級が乗客。

エルザに通路で出会うと、乗客がハッとして一瞬息を呑む。そして身をこわばらせるのがわかった。

PN。

その存在が、この車両では異物だった。

列車はPN勢力圏へ向かう。

だからこそ、彼女は警戒の対象になる。

通路の端に立つ帝国辺境騎士団の警備兵が、露骨に睨んだ。

エルザは視線を返さない。

だが、背中に刺さる敵意は感じていた。


「だめだ、ここは一等車だ!」

突然車両の出入り口から大きな声が聞こえた。

小さな少年が車掌に腕を掴まれている。

トマスだった。

七歳の、リードの息子。

エルザは偶然そこにいた。

「トマス!その子は……」

車掌が振り返る。

「あなたの連れか?」

車掌は乗客を把握している。

当然エルザがどういう関係の乗客であるかも。


エルザは小さく頷いた。

嘘ではない。

彼女はトマスの手を取る。

「お姉ちゃん!」

トマスが抱きついてくる。

「この子は私に会いに来ただけです…さあトマス、いこう…」

短く言い、トマスを連れて三等車へいった。



リードは深く頭を下げた。

「すみません。ありがとうございます。」

「いえ、大したことでは…」

エルザは首を振る。

子供にもきちんと礼儀をもって対応していることが人柄を表していた。

トマスは無邪気に笑っていた。

だが三等車も安全ではなかった。

ここでも視線が刺さる。

ICの客。

PNの客。

どちらからも。

エルザはリードの妻の隣に座る。

二人は小声で話した。

この車内はいわば二人にとって敵地同様だ。

「……あなた、大丈夫?」

妻のナヤラが言う。

その目は優しい。

エルザは一瞬、胸が詰まる。

こんな風に心配してもらうのは伯爵とイルマ以外で初めてだった。そしてその二人とも違う、もっと柔らかくて温かいものを感じていた。

母のようだ、と思った。

「平気」

だが、声はわずかに硬い。

エルザは尋ねた。

「奥さんこそ、大丈夫なんですか…その…」


「私は大丈夫。もう慣れたから」

そう微笑むナヤラの顔はどこか寂しげだった。


「あの…お聞きしてもよろしいですか?」

エルザは遠慮しながら尋ねた。

「あなたの聞きたいことはわかるわ。」

トマスを膝に乗せてナヤラは答えた。

リードがトマスを引き取って膝に乗せていた。

ナヤラは静かに答える。

「苦しいこともある。でも……」

視線が向かう先には、リードがいる。

リードはトマスに水を渡している。

「彼がいてくれたから、生きてこられた…トマスもね…」

そして自分のために軍を辞めたこと。移住を決めたこと。

そのすべてに、感謝している。

とナヤラは話した。


エルザはさらに踏み込む。

「反乱のことは? PNの今をどう思う?」

二人は言葉に詰まった。

周囲の空気が張り詰める。

聞き耳があるかもしれない。

敵意はすぐそばにある。

しばらくして、リードが言った。

「今の俺たちが、答えです」

ナヤラも静かに頷いた。

意味がわからなかった。

エルザは首をかしげる。

──二人が答え?

愛し合い、境界を越えて生きること。

それが答えなのか。


列車は鉄輪の音を響かせながら、

ゆっくりとPNの大地へ近づいていった。

エルザは窓の外を見つめる。

彼らの言葉の意味を、まだ掴めないまま。

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