港町
船が汽笛を鳴らし、新大陸の港へと滑り込んだ。
石造りの巨大な倉庫群。
重厚な銀行や商館。
煙を吐く工場の塔。
埠頭には馬車が何台も並び、威勢のいい掛け声と鉄輪の軋む音が交錯している。
旧大陸の港とは空気が違う。
空気が乾いていて、どこか尖っている。
伯爵と並んでタラップを降りた瞬間だった。
視線。
それも、はっきりとした敵意を帯びたもの。
エルザは無意識に背筋を伸ばす。
原住民の蜂起が何度も起きている土地。
それを鎮圧してきた過去。
その緊張が、街全体に染みついている。
エルザは自分の顔立ちを知っている。
この土地の原住民と同じ目の色、同じ髪の色、同じ肌の色。
それなのに、隣にいるのは貴族。
しかも奴隷としてではない。
その不自然さが、人々の神経を逆撫でするのがわかった。
荷を運ぶ労働者の中に、同じ顔立ちの男たちがいる。
汗にまみれ、汚い布をまとい、重い荷を背負っている。
街角では、腰に銃を下げた原住民の男を何人か見かけた。
壁にもたれ、通行人を鋭い目で観察している。
その視線もまた、冷たい。
裏切り者を見るような、疑い。
エルザは視線を逸らした。
宿泊するホテルは、白い石壁の壮麗な建物だった。
だが、扉をくぐった瞬間、空気が変わる。
スタッフの目が、揃ってこちらを向いた。
値踏みするような視線。
フロント係は、伯爵から受け取った宿泊者名簿に目を落とし、
次にエルザを見る。
もう一度、名簿を見る。
一瞬だけ、眉が動いた。
だが何も言わず、形式的な笑みを浮かべる。
「……こちらへ」
案内される間も、背中に視線が刺さる。
部屋に入ると、伯爵は帽子を取った。
「少し外へ出よう。食事を兼ねて」
エルザは黙って頷く。
馬車に乗り、街を進む。
窓から外を眺める。
整然とした大通り。
だが、ふいに馬車が止まった。
横を見ると、細い路地。
スラム街だった。
崩れかけた建物。
地面に座り込む原住民の男が、酒瓶を抱えたまま倒れている。
別の男が、数人に囲まれ、殴られ、蹴られている。
誰も止めない。
誰も驚かない。
まるで日常。
馬車は何事もなかったかのように動き出す。
エルザの喉が乾いた。
目的のレストランは、灯りの明るい高級店だった。
入ろうとした瞬間、ドアマンが腕を伸ばす。
「おい。奴隷は入るな」
一瞬、時間が止まった。
エルザの足がすくむ。
胸が締めつけられる。
だが次の瞬間、伯爵が静かに言った。
「その子は私の家族だ」
声は低く、揺るぎない。
ドアマンは顔色を変え、すぐに頭を下げた。
「失礼いたしました」
道が開く。
エルザは小さく息を吸い、店内へ入った。
だが中でも、視線は変わらない。
食事の手を止める客。
ひそひそ声。
冷たい空気。
エルザの胃がきりきりと痛む。
食事の味がわからない。
視界が揺れる。
伯爵が気づく。
「顔色が悪い。無理はするな」
「……大丈夫です」
そう言いながら、手は震えていた。
ホテルへ戻ると、エルザは窓辺に立った。
裏通りが少し見える。
夜の闇の中、街灯の下に立つ女たち。
原住民の女性。
肌を思い切り出した服。
通り過ぎる男に声をかける。
娼婦。
エルザの喉がひくりと鳴る。
もし、伯爵に出会わなかったら。
もし、あの港で違う運命を辿っていたら。
あそこに立っていたのは、自分かもしれない。
想像した瞬間、胃の奥がひっくり返る。
エルザは口を押さえ、洗面台へ駆け込んだ。
吐き気。
体が震える。
冷たい水で顔を洗っても、震えは止まらない。
鏡に映る自分の顔。
同じ目。
同じ肌。
けれど、立っている場所が違うだけ。
ベッドに腰を下ろし、エルザはうつむいた。
悲しみが込み上げる。
怒りではない。
絶望でもない。
ただ、重い悲嘆。
自分はどれだけ恵まれていたのか。
食べる場所があり、学ぶ機会があり、守られてきた。
その事実が、胸に刺さる。
窓の外では、笑い声と罵声が入り混じる。
この街の現実。
エルザは拳を握りしめた。
目に涙が滲む。
知らなかったわけではない。
だが、目の当たりにする重さは違う。
ここが自分の故郷。
そして、まだ救われていない人々がいる場所。
エルザは静かに顔を上げた。
胸の奥に、痛みと共に、何かが芽生えていた。
それは恐怖ではない。
逃げたいという思いでもない。
現実を知ってしまった者だけが抱く、
重い、決意だった。




