表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/50

その夜は、やけに静かだった。

その日エルザは伯爵から旧大陸へ行く話を聞いた。

また魔術の研究をするためだという。


旧大陸…あれから何度も太陽をここで見た。 

ここで夜を過ごした。

朝を迎えた。

人がいた。

いろんなものを見た。


旧大陸…その言葉になぜか胸がざわざわする…

懐かしいからか…帰りたいのか…わからなかった…


その日の夜エルザは胸がざわざわしたまま眠りについた。


――遠くで、狼が鳴く。

低く、長く、胸の奥を震わせる声。

はっと目を開ける。

なにかの気配を感じた。

ベッドから身を起こしたエルザは、パジャマのまま城の廊下へと足を踏み出す。

狼の叫びがまた聞こえる。

導くように。

誘うように。

「……待って」

自分でもなぜ追いかけるのか分からないまま、走り出す。

暗闇の庭に、二つの光る目が浮かんだ。

金色の瞳。

闇を裂いて揺れている。

狼は振り返り、森へと消えた。

エルザは迷わず追う。走り出した。からだが止まらない。自分ではない誰かが走ってるようだった。

風が耳を切る。

目が乾く。

息が苦しい。

なにかが聞こえる。

頭の中で響いている。

狼?

言葉は懐かしい。

どこかで聞いた。

古の言葉。

祖母の声なのか。

うるさいほど語りかけてくる。

自分もなにかを答えている。

なんで?

誰が答えている?

なんて言っている?



森を抜ける。

枝が頬をかすめる

城の周りの見慣れた風景。

川を渡る。

それでも狼は止まらない。


視界がひらける。

――草原。 

風が草を鳴らしている。

月明かりに揺れる、果てのない草の海。

空気が違う。

匂いが違う。

懐かしい、乾いた風。

故郷の草原。

「どうして……」

考える間もなく、狼の背が遠ざかる。

また声が頭の中に入ってくる。


エルザは走る。

ひたすらに走る。

風の音がうるさい。

胸が焼けるように苦しい。

そのときずっと頭の中で語っていた声が言った。

――お出で。

優しく、しかし抗えない響き。

「……誰?」

問いかけても答えはない。

また声。

――お出で。

エルザはさらに速く走る。

景色が揺らぐ。

気づけばそこは、自分がかつていた村だった。

小さな家々。

土の道。

見慣れた井戸。

胸が締めつけられる。

だが狼は止まらない。

――お出で。

声が強くなる。

エルザは再び走り出す。

地面が消え、視界が跳ねた。

気づけば、馬の上にいた。

黒い馬が荒野を駆けている。

「……!」

遠くに、狼の姿。

金色の瞳が振り返る。

エルザは馬腹を蹴った。

風を裂いて進む。

その途中に、立つ影があった。

伯爵。

月光の下、静かに佇んでいる。

何かを語っている。

唇が動いているが、声は届かない。

その傍らに、ルーカス。

イルマ。

ルートヴィヒ。

皆、こちらを見ている。

だがエルザは止まれない。

彼らの横を、駆け抜ける。

「待って……!」

叫んでも、振り返らない。

狼だけを追う。

やがて、狼が止まった。

草原のただ中。

エルザは馬を止める。

――狼が、倒れている。

血は見えない。

ただ、静かに横たわっている。

その傍らに、ひとり立っていた。

黒い外套。

黒い帽子。

影のような男。

手には銃。

ガンマン。

「……誰?」

男がゆっくりと顔を上げる。

その目は、空洞のように暗い。

銃口が、こちらへ向く。

一瞬、空気が凍った。

次の瞬間。

空気を押し潰すような衝撃音。

世界が裂ける。

エルザの身体は弾け飛んだ。

痛みを感じる暇もない。

視界が白く染まり、自分が砕け散るのを、どこか他人のように見ていた。

肉片が草原に降る。

風が吹く。

闇。


荒い呼吸。

ベッドの上で、エルザは跳ね起きた。

全身が汗に濡れている。

胸が激しく上下する。

夢。

ただの夢。

それでも、あまりに鮮明だった。

震える手で窓を開ける。

夜の空気が流れ込む。

そのとき。

遠くで、狼が鳴いた。

エルザの背筋を冷たいものが走る。

導くような、呼ぶ声。

「……行かなきゃ」

自分でも驚くほど、はっきりとした言葉だった。

あの語りかける声。

懐かしい声。

あの草原。

あの狼。

あの黒いガンマン。

あれは何?

知らなければならない。

だが逃げるという選択肢は浮かばなかった。

知らなければならない。

自分の運命を。

故郷へ。

窓の外の闇を見つめながら、エルザは決意する。

意味を知るために。

未来を。

目覚めたあとも、胸の鼓動はなかなか収まらなかった。

汗に濡れた寝衣のまま、エルザはしばらく天井を見つめていた。

あの衝撃。あの黒いガンマン。砕ける自分の感覚。

そして――狼の声。


静かに扉を開け、廊下を抜け、庭へ出た。

夜気が肌を刺す。

だが不思議と冷たさは心地よかった。

見上げれば、月。

冴え冴えと白く、世界を見下ろしている。

草を踏みしめ、庭の中央へ進む。

そこは、かつて伯爵が星の位置を測っていた場所。

そしてエルザがひとり、魔術の基礎を練習していた場所でもある。


エルザは月をみあげた。

自然と言葉が出た。

先祖から受け継いだ言葉。

祖母の声が頭の中に響いた。

両手を大きく広げて月を抱えるように。

そのままエルザはゆっくりと膝をついた。

エルザの声は低く響いている。

それはだんだん低くかすれていく。

まるで老婆のような声に。


両手を地面に置く。

目を閉じる。


低く、かすれた声。

先祖から伝わる、古の呪文。

意味の半ばは失われている。

だが響きだけは、体の奥に刻まれている。

「土に眠りし者よ、風に宿りし者よ

我が声を聞き給え」

月を見上げる。

銀の光が瞳に宿る。

再び唱える。

言葉が夜に溶ける。

そのたびに、胸の奥が震える。

やがて、エルザはゆっくりと身を伏せた。

額を地面に押しつける。

冷たい土の感触。

湿った匂い。

鼓動が耳の奥で鳴る。

「導きを……」

ささやき、また起き上がる。

月を見る。両手で月を抱えるように。

呪文を唱える。

そして額を地面につける。

一度。

二度。

三度。

何度も、何度も。

額が土で汚れても、構わない。

草が頬を濡らしても、止まらない。

そのたびに、エルザの祈りは深くなる。

風が強く吹いた。

月光が一瞬、強まったように見えた。

最後にもう一度、呪文を唱える。

古い音節が、夜空へ昇る。

そして深く、地に額をつけた。

長い沈黙。

やがてエルザは顔を上げる。

額に残る土の冷たさが、奇妙な安心を与えていた。

答えは聞こえない。

だが、拒まれてはいない。

それで十分だった。

立ち上がり、月を見つめる。

もう迷いはない。

その代わりに、胸の奥に静かな火が灯る。

待っている宿命がある。

先祖の血が流れる地へ。

自分の足で先祖の血が染み込んだ大地を踏みしめるために。

夜の庭に立つエルザの影は、もう少女のそれではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ