第1話:母の死と本宅への帰還(オレリー視点)
秋の日、柔らかい日差しの中で、母と兄と一緒に、庭に花の球根を植えていた。
「リリ、そぉっと、土をかけるのよ。」
母の手が、私の手に重なる。 温かくて、柔らかい手だった。
「はい、母上。」
私は兄が掘った小さな穴に、球根を入れると、優しく両手で土を寄せた。
「この球根はね、春になるとピンク色の花を咲かせるの。」
母は私たちを包むように柔らかく微笑んだ。
「来年の春、一緒に見ましょうね。」
「はい。」
私たちは元気よく頷いた。
来年の春。 その言葉が、どれだけ尊いものか、まだ私たちは知らなかった。
◇
侯爵家の別宅は本邸から馬車で30分ほどの距離にある、小ざっぱりとした屋敷だ。母がいて、兄がいて、とても温かかった。本邸——父の住む屋敷——から離れたこの場所で、私たちは静かに幸せに暮らしていた。
母はいつも白い顔をして、食べる量も少なくて、痩せていた。 でも、いつも私たちを見て空気が和らぐような微笑みを送ってくれた。
「お母様、本を読んであげましょうか。」
兄が、母の隣に座る。
「ありがとう、ガブリエル。」
母は嬉しそうに頷いて、兄を抱き寄せる。
兄が朗読を始めると、母は目を閉じて聞いていた。 私は温い母の膝に頭を乗せて、庭を眺めていた。青い空と一枚一枚の葉が、柔らかい太陽の陽ざしに照らされて、キラキラと風にそよいで揺れている。
「……この物語、いいわね。」
母が呟く。
「最後は、幸せになるのですか?」
兄が小さく尋ねた。
「ええ。どんなに辛くても、最後は必ず幸せになるの。」
母は私の髪に母の指を通し、静かに梳いた。
「リュリュも、ガブリエルも。きっと、幸せになれるわ。」
「……母上。」
「なあに?」
「僕は、ずっとここにいたいです。」
母は目を見開いて、それから瞳の奥を揺らしながら微笑んだ。
「……そうね。私も、ずっとここにいたいわ。」
母の声は少しかすれていた。
◇
夕暮れ時、夕日が林の向こうに沈んでいき、木々のシルエットが黒々と浮かびあがる。夕焼けの上にはもう夜の色が始まっている。緩い乾いた風が林から流れてくる。
窓を開けたテラスで、三人で食卓を囲んでいた。私のこぶしほどのジャガイモや、大きく切られたニンジン、大きな塊のキャベツに玉ねぎ。すべてがじっくりと煮込まれているスープ。料理人のマギの手作りのソーセージが入っている。焼きたてのカンパーニュをちぎってスープに浸して食べる。テーブルにはオリーブのオイル漬け、カラフル野菜のピクルス、デザート代わりのリンゴが2つ、置いてある。
「リリ、字の練習、頑張っているのね。」
母が私のノートを見て、ほほを緩ませ、目を細めた。
「まだ癖がありますが……。」
母が練習をほめてくれて、照れて顔を赤らめながら言った。
「いいえ、とても綺麗よ。」
兄がなれた手つきで紅茶を注ぎながら母に言った。
「リリは母上に似ています。優しくて、辛抱強い。」
「ガビ……。」
私はリンゴのように頬が赤くなり、触ると熱くなっていた。
母は、私たち二人を見て、眉が震えて寄ったかと思うと、瞳の奥がきらめくようだった。
「……二人とも、大きくなったのね。」
母上の表情が不思議で、私は母を呼んだ。
「母上?」
「いいえ、何でもないの。」
母はゆっくりと首を振った。
でも、その目は少し潤んでいた。
◇
その夜、扉が軽く叩かれると、母が顔を出した。
「リリ。」
「母上。」
母はベッドの縁に座り、私を隣に座らせた。そっと私の手を取ると、優しく撫でてくれた。
「いつか、……辛いことがあるかもしれない。」
「……母上。」
「でも、あなたは強い子よ。そして、ガブリエルがいる。」
母は両手で私の頬を挟み込んで、おでこにおでこをくっつけた。
「二人で、支え合いなさい。」
「……はい。」
私は目をつむりながら、母のおでこと手の温かさと母の匂いを感じていた。
「おやすみなさい、リリ。」
「おやすみなさいませ、母上。」
母は私を抱きしめて、頬に頬をあてる。もう一度、私の顔を両手で包むと、静かに微笑んでから部屋を出ていった。
母の背中が痩せてしまって小さく見えた。
◇
それから、ほんの、数日の後。
母が一歩を踏み出したときに、膝がくずおれるようになって、ぺたんと座り込んだ。
「母上!」
兄と私が慌てて駆け寄ると、母は床に座り込んだまま、ゆっくり私たちを抱き寄せた。首に感じた母の指先は、冷たくひんやりしていた。
「……大丈夫よ。少し、めまいがしただけ。」
母の顔は青白く、目はぼんやりと遠くを眺めるように揺らめいた。
◇
執事のアンリが急いで医師を呼びに本宅へと向かってくれた。
母はベッドに運ばれて、静かに目を閉じていた。声をかけると目を覚ますが、またすぐに眠ってしまう。
医師は、脈や舌、目などを見て、母付きの侍女のマリアンヌからいろいろと聞き出した。そして、大きなため息をつきながら、ひどく静かな声で私たちに伝えた。
「……長くはないでしょう。」
医師の言葉が、私の鼓動を止めた。
母はベッドに横たわり、私たちを見て微笑んだ。
「心配しないで。私は、もう十分幸せだったから。」
「母上……。」
兄の声が震えている。
母を呼ぼうとしたが、喉が塞がってしまったようになって、言葉が出なかった。
母は、兄の手を取り、それから私の手を取った。
「二人とも、幸せになりなさい。」
「は、は、うえ。」
私の瞳からは、涙が止めどなく流れる。母が見えなくなってしまう。息を整えようとするが、ひゅっくひゅっくしてしまう。
「リュリュ。ガブリエル。愛しているわ。」
母は手を伸ばし、私たち兄妹は母のベッドに乗って、涙を流しながら、母の頬にキスをした。
母の手から力が抜けていくのを感じた。
兄が叫んでいた。
置いてかないでと。
しばらくして、医師が小さく押し殺したような声で、「お亡くなりになられました」と伝えた。
皆が、静かにその言葉に耳を傾けた。
◇
私たちは使用人たちとで、母の葬儀を行った。父は現れなかった。
空は、限りなく高く、そして青かった。雲一つない、そんな天気なのに。
私は静かに、黙って、涙を流し続けた。
兄も、黙って母の棺を見つめていた。
そして、数日後、私たちは侯爵家本宅へ戻ることになった。
◇
兄と私は別宅にあった小さな馬車に乗った。
母と過ごした愛のある別宅から、父のいる本宅へ。
「……リリ。」
兄が呟いた。
「はい」
「何があっても、俺がいる。」
兄は私の手を握った。私は頷いたまま、兄の手をじっと見つめた。
兄の手は、小さく震えていた。
2歳年上の兄ガブリエルは、当時12歳だったのに、私をしっかりと守ろうとしてくれていた。
馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外を、母の庭が遠ざかっていく。
もう二度とあの場所には戻れないと思った。
◇
そんなにかからずに、本宅が見えてきた。
大きく、豪奢な屋敷だった。
私には要塞のように見えた。
寒さを感じて、握っていた兄の手を強く握りしめた。
◇
馬車を降りると、執事が出てきて出迎えてくれた。
屋敷に入ると、香水のような、何か強い香りがした。
「お帰りなさいませ。」
使用人たちが頭を下げる。
でも、誰も私の目を見なかった。
「……ガブリエル様、オレリー様、お部屋へご案内いたします。」
2階へと上がる。
「ここより東側に、当主様のお部屋がございます。ガブリエル様方には西翼をお使いいただきます。」
家族の居室が配された東翼ではなく、西翼へと案内された。
部屋は、一番奥の小さな客室だった。使用人が使う階段のされに奥なので、静かだ。別々のベッドルームにそれぞれの浴室と小さな書斎が付いており、共有部としてリビング・ダイニングがあるという部屋だった。正直、兄と別々にされることが怖かったので、うち扉で出入りできるところに兄がいるということで、私は安心した。
私が3歳のころ、母は別宅へ追いやられてしまったらしい。兄は5歳だったので、屋敷を覚えていたかもしれない。私はまったく覚えていなかった。
◇
その夜、従僕がやってきて、食堂に通された。
華やかなダイニングルームには、長いテーブルがあり、その上座には、豪華な衣装を着た父が座っていた。
その隣には、美しく着飾った女性が座っていた。
「アデル・ド・ロシュフォール侯爵夫人だ。二人は立場をわきまえるように。」
正妻の席に座っている女性が、私たち二人を見てにっこりと微笑んだ。
「あら、お姉様。お座りになったら?」
明るい声が響いた。
「私はエレオノール・ド・ロシュフォール。よろしくね。」
父の左隣り、夫人とはテーブルの反対側に座る少女が、急に話しかけてきた。
私より1つ年下の、義妹がいるという話は聞いたことがある。
彼女はどこに行くのかと思ってしまうほどに、レースやリボンで飾られた衣装を着て、笑っていた。
「葬儀、大変でしたね。でも、これからはずっとご一緒ですもの。楽しみだわ。」
私には楽しくなりそうな気が全くしなかったので、何と答えたらいいのかわからなかった。
彼女の笑顔はどこか作り物めいたものに見えた。
母が死んで間もないというのに、二人はロシュフォールを名乗った。もう正式に婚姻しているということのようだ。
◇
食事の間、父はその後、一度も私たちを見なかった。
義妹は、私のドレスをじっと見ていた。
「お姉様、そのドレス、形見かなにか?」
私は硬い表情のまま、小さく頷いた。
「まあ、古風なものが好きなのね。私はもっと新しいデザインが好きだけれど。」
隣に座る女性が、柔らかく笑った。
「オレリー様は、本当にお母様によく似て控えめでいらっしゃるのね。」
使う言葉は優しいものだったが、声の底に、何かが潜んでいた。
3人と、私たちのメニューは明らかに違うものだった。
メインディッシュは用意されず、スープにパンが置かれていただけだった。
◇
食事が終わり、兄が席を立つと同時に、私も席を立った。
侍女に案内されて部屋に戻った。母の侍女だったマリアンヌが、そのまま私の侍女になってくれた。そして、兄の従僕も今まで通りジュリアンが充てられたようだった。
兄は今のソファに座ると、私を隣に座らせて抱き寄せた。兄の肩に頭を寄せた。温かい。
「リリ。」
「……ガビ。」
ガビは小さいころからの兄の愛称だ。二人になると、ついつい、この名前で呼んでしまう。
兄は何も言わず、私の肩に手を置いた。
「……ここで生きていかなければならないのだな。」
「はい……。」
◇
自室側に入ると、明かりに照らされた部屋が映っている窓に近づいて、ガラスに顔を近づけた。外が見えるようになって、闇が迫ってくるように感じて、怖くなった。母と一緒に過ごした庭はそこにはなかった。背筋が冷える様な感覚に陥っていた。
「オレリー様、お風呂にいたしましょう。」
マリアンヌが明るく声をかけてくれた。
振り返ると、明るい部屋があって、マリアンヌが微笑んでいた。ほっとして、湯を使いに浴室へ行った。
夜着に着替えると、ベッドに横たわり、天井を見つめる。
見慣れない景色、冷たいベッドに、悲しくなって涙が流れた。
コンコン。
居間から、扉を叩く音がした。
「リリ、起きてるか。」
「……はい。」
兄が続き部屋の扉を小さく開けると、ランプを持ってこちらへ入って来た。
「一緒に寝よう。」
「……ありがとう、ガビ。」
「何があっても、俺がいる。」
兄の腕の中は温かくて、わたしはようやく眠った。




