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婚姻届


耳元で始まりの合図が流れた。

とりあえず銃を持って前へ進む。

さっきの高級感溢れる部屋はどこへ行ったのか。


商店街のようなこの通りは、瓦礫と焼け焦げた鉄屑が積み重なるだけの無人地帯。

アスファルトは割れ、ひび割れの隙間からは細い雑草が伸びている。屋根の落ちた建物、崩れかけた看板、ひしゃげた街灯。まるで戦後のようだ。

遮蔽物は多い。だが、どれも長くは身を守れないことようなものばかりだ。


「"ゲーム"?ゲームってなんだよ?」

「分からないのかい?君の世界にも似たようなものがあるって聞いたんだけどな」


彼女にはゲームという単語を聞いてもピンと来ていなかった。

一本の広い大きな通路に出たところで、奥から影が見えたので大きな箱の後ろに隠れる。

おそらく奥を右に曲がったところにマクダウェルがいる。

マクダウェルもこちらに気づいたのか、銃声が鳴り響き頭の上を弾丸が通っていった。

こちらも顔を出して奥に威嚇射撃をする。


「ゲームというのは勝負事のことさ。

お互いの優劣を決めるのに一番相応しい方法。

もちろんルールの下でね」

「じゃあ私が勝ったらわたしに服従すんの?」

「それはありえないね。ゲームに勝って得られるのは対戦相手の"お金"さ。そのゲームで定められた額を敗者は勝者に支払う、シンプルだろう?」


装備にセットされた対話機能での物静かな会話とは裏腹に、激しい銃撃戦を繰り広げている2人。


「なるほどな、要はゲームに勝たなければ飢え死に、勝てば生きる糧を相手から分盗るわけだ」

つまりゴリゴリの賭博、ギャンブルの類だ。

とんでもない世界に来てしまったな、彼女は頭を抱えたが来てしまったものは仕方がない。


「ちなみに聞きたいんだけど、このゲージが0になったら私死んだりしないよな…?」


ゲージとはHP、体力のことだ。ナヅナの視界の端にゲージのホログラムが映し出されていた。

おそらく無いだろうが、一様確認する必要があった。


「死ぬ?ははっ、面白いこと言うね」


面白い要素はどこにもないのになぜかマクダウェルは笑い出した。


「安心しなよ。それだけは絶対にあり得ないから」


マクダウェルをまだ信用しているわけではないが、もう戻れないので今は信じるしかない。

ナヅナもまだ聞きたいことが山ほどあるが、今はそんなことは言っていられない。

両者とも場所がバレないように黙り始め、冷戦状態となる。

マクダウェルがどこにいるか耳を研ぎ澄まして探す。


「ここだよ」


横を見ると細い道の奥に銃とニコッと笑った顔だけを出してこっちを見ている奴がいた。

すぐに射線の外に逃げようとしたがその前にマクダウェルが引き金を引く。

当然その弾丸は彼女の体にあたった。

すぐに隠れてHPゲージを見ると1/6程度減っていた。当然と言えば当然だがおそらく後5、6発くらえば負ける。


「チッ」


くらってしまったが、落ち着いて弾をこめて

ゆっくり立ち上がりまだ耳を澄ます。

実力差はあまり無いようだが、雑に撃っても当たらないし、避けられるのでそもそも当てること自体が難しい。この遮蔽がたくさんある場所でマクダウェルに勝つことはかなり難解だ。


すると、彼女は何を思い立ったのか立ち上がって遮蔽からガッツリ体を晒した。

隙があり、どこからでも狙われるてしまうが相手の油断を誘うためだ。

すると、横からカサッと音が聞こえた。

そこから驚異的な瞬発力で音がした方向へ銃を向け、マクダウェルの体が見えた瞬間引き金を引いた。

すぐさましゃがんで射線を切る。

無事、放った弾丸は彼の体にあたり自分は無傷。


「ラッキー」


彼女は感覚だけで標準を合わせて撃ったが、奇跡的にあったようだ。


「動きを見て思ったんだけど、君本当に初心者なの?なんだか熟練の戦士と戦っているかのように錯覚してしまう」

「まぁ人生経験は年齢に見合わねーかも」


そんな冗談を言いながら走って場所を変えながら次の策を練る。

今度は目の前に落ちていた直径大きめの石を拾った。マクダウェルは、単純な撃ち合いの際、自身の回避スキルに自信があるのかオーバーピークが目立っていた。 

狙うならその瞬間だ。

博士がオーバーピークした瞬間を狙って顔面目掛けて石を思いっきり投げた。


マクダウェルは彼女の突然の行動に少し驚いた。

こんな放り上げられただけの石ころなんて簡単に避けられる、そんなことは容易に想像できるはずなのに。

マクダウェルは自身の顔面目掛けて飛んできた大きな石を眼前で避けようとした。

自分の視界いっぱいに広がった灰色の塊が外れたその時、そこには仰々しい目でこちらに銃口を向けた彼女が目の前まで飛んできていた。

銃声が数発鳴り響く。


「ふぅ……」


マクダウェルは安堵の息をつく。

幸い、弾は一発しか貰わなかったが、流石に冷や汗をかいた。


「危ない危ない………」

「もう2発は喰らって欲しかったんだけど」

「あの目は、人に向けていいものじゃないよ」


まさかあんな強行作戦に出るとは、流石のマクダウェルも予想していなかった。それに、眼前の来た時の彼女の目は寒気がするほど奥が見えなかった。

そこから幾度となく銃撃戦を交え、気づけばお互い瀕死となっていた。


「僕もこのゲームの勝率は8割を超えているんだけどな…」

「悪かったな、才能があって」


最初は一方的なゲーム展開だとお互いに予想していたが、現状は違った。拮抗した試合が繰り広げられている。


「僕は隠れて相手の裏をかく戦い方なんだが、君は耳がいいから相性が悪いな」

「耳だけじゃなて嗅覚も自信があるぜ。博士がどんな汚い戦法を使ってくるか、嗅ぎつけるんだよ」

「汚いとは失礼な、まぁ否定はしないけど」 

「自覚があるなら尚更だわ、いい性格してる」

「そりゃどうも」


マクダウェルは最初よりも周りを警戒しながら歩く。

一発でも貰えば負ける。

流石にマクダウェルにもプライドはあるので、ここで負けるわけにはいかない。


「私も君を真似て耳を澄ましてみようかな」


思いついたかのように話してすぐに黙り、耳を澄ます。お互いがお互いの位置を耳で探りながら周りを警戒する。

少しでも音がすれば、そこへ一点集中。

マクダウェルは音だけに集中し、通りの壁際をゆっくり歩く。どこから来てもいいように目は開けつつ耳だけに頼る。


すると、右側の軒並み立ち並んだ建物の開いたドアの奥からカサッと音が鳴った。

咄嗟に開いたドアの横の壁に背中をつけ、顔を覗かせると、奥から発砲音と共に球が飛んできた。すぐに顔をしまい状況を整理する。

この建物は三階建で入るとすぐ正面に折り返し階段がある。

おそらく階段の折り返し地点に彼女はいる。ただ入り口はここしか無いので、ここを塞いだ以上、二階と三階の窓から飛び降りない限り彼女は外へ出られない。


もう一度だけ顔を出すと彼女はいなくなっていた。おそらく二階へ上がったのだろう。

警戒心を解くことなくゆっくりと中へ入り階段を登っていく。上からの射線を警戒しながら一段一段上がっていき二階に着いた。

しかし彼女が三階にいることがすぐに分かった。

三階へ続く階段には乾いた砂塵と靴の跡。踏み込んだ形跡がはっきり残っている。

おそらくこの階段を登った先に彼女がいる。

音を立てず銃を低く構え階段を登っていく。

三階へ到着すると、そこは開けた大きな空間だった。

オフィステーブルにノートパソコンがずらりとあるが、全て埃かぶっていてどれも起動しなさそうなものだった。


「おーい、ここにいるんだろ?正々堂々一対一といこうじゃないか」


マクダウェルは依然として、銃を持ち上げたまま対話を試みるが返事はない。

返事どころか物音一つない。物が散乱しているオフィステーブルの一角に何もないスペースがあった。まるでそこにあった物が取り上げられたようだった。

すると外の大通りから、ガシャンと大きな音が鳴った。まさか本当に飛び降りたのか?と思いながら早足で窓際へ向かう。

そのまま上半身を外に出し銃を下に向けた。

しかし視線の先の地面には彼女ではなく、大破したノートパソコンがあった。

それを確認したその瞬間、自身の頭の真上からカチャッとピストルを構える音が耳に入った。


そしてすぐに理解した。

あのノートパソコンは誘き出すためのブラフ。今、彼女はこの窓よりも上部の壁に、パイプを掴んで壁に立っていて、マクダウェルの頭部にピストルを向けている。つまり引き金を引けば

この試合は彼女の勝利で終わるのだ。


「銃を向けられる気持ちがわかった?」


ここまで何度も銃を向けられてはいるが、この至近距離では死なないと分かっていても覚悟がいる。


「こういうのは相手より上をとった方が有利なんだよ」

「…これは予想外だったな」


今の状況、マクダウェルにとって絶体絶命。

彼女が発砲しようと言う考えに至った瞬間に終わりだ。

視線と両腕、銃は下に向けているためこのまま上への発砲を狙っても隙が生まれて直ぐに撃たれてしまう。

ならば解決策は一つ。

素早く建物内へ身体を戻す。無事に建物内にしまい込んだら、後は彼女も素早く建物内に滑り込んでくるだろう。その瞬間が狙い目だ。

彼女の反射神経を考えればかなりの賭けなのだが、ピンチを脱するにはこれしかない。


「撃たなくていいの?」

「もう勝ちは……!」    


彼女が口を開いたその隙にに、素早い動きで後ろへ一歩下がる。その瞬間発砲音が響いたが、マクダウェルにはまだHPは減っていなかった。直ぐに視線を戻し前へ銃を構える。

彼女の反射神経も見事だったが、放った弾丸は地面に落ちたノートパソコンに当たり鈍い音が鳴る。

彼女も素早く窓の上縁を掴み、銃を前に向けながら建物内へ滑り込む。

そして二つの発砲音が重なるように鳴る。

この間は、1秒にも満たなかった。


お互い冷や汗をかきながら自身のHPを確認する。

彼女のHPに変動はない。しかしマクダウェルのHPはあっけなく減っていき、顔の前にバツのホログラムが出現した。

勝利を手にしたのは初ゲームのはずの彼女だった。


______________________________________




「それで改めて聞くけど、僕の実験に付き合うか、それとも自立するか。どっちがいい?」

「ん?あぁ…」


そういやそっちが本題だったな…と思い出し、ガラス張りの奥の景色から目を外す。

先程までの1対1のステージから、最初の高級感溢れる部屋に戻っていた。

結果はナヅナの勝ちだった。

マクダウェルはビギナーの輩に負けたのが悔しかったのか少し落ち込んでいたがそれは一瞬で、すぐにいつもの調子に戻っていた。


「両方選ぶのはあり?」

「え?」


その答えは予想していなかったのか、素っ頓狂な声が出るが、気にせず話を進める。


「今やった"ゲーム"とやらが、どんなものかなんとなく分かったよ。私には才能があるらしい。あんたにも勝ったし」

「もしかして、あっちの世界で実は軍人だったとか?」

「そんなわけないだろ、多少運動はできるけどあんな物騒な物持ったことないし」


前の世界での出来事を懐古するが、戦場を渡り歩いた記憶などはもちろんない。


「まぁでも、楽しかったよ。ステージを駆け巡る最中のあの爽快感とか達成感とか高揚感とか、もう一度味わいたいと思った」

「確かに君を見ていると、会ったばかりなのに負ける未来が見えないよ」


苦笑しながら冗談混じりに言う。

それでも確かに、確信めいたものをマクダウェルは感じていた。


「けど、甘く見てはいけないよ。この世界には様々なゲームがあるが、君に合うゲームばかりではない。それに君よりも優れたプレーヤーだってたくさんいる」


「もちろんわかってる。別にこの世界で頂点を取ろうなんて思ってない。ただ私は自由に生きることができるならそれでいい。

ただ、"家"には帰る。だから博士の実験にも付き合う、これなら博士にとっても有意義だろ」


つまり博士の力を借りず自分の力で生きる。ただ元の世界には帰るので、転送装置の完成には手を貸す。これが彼女の提案だった。


「君がいいならそれでいいけど」


自分にとってもマクダウェルにとってもプラスな提案なはずが、なぜか不満そうな顔をしていた。自分のことは自分でなんとかするし、実験にも付き合うのだから博士にとってはこれ以上ないほどにマクダウェルにとっては都合が良いはずなのだが。

「何か不満?」

「いや、何もないよ」

何故そんな顔をするのか、マクダウェルが何を考えているのか彼女にはよく分からなかった。


「じゃあ早速この稼ぎに行きたいんだけど」

「まってまって、このまま街に出てもゲームはできないよ」


ここにいても仕方がないので"早速ゲーム"でお金を稼ごうと思い、街に出ようと意気揚々な彼女をマクダウェルは止めた。それには面倒くさい理由がついていた。


「え、なんで?」

「ゲームというのは、ゲームワールドという場所に存在する。つまり、ゲームをするのにはゲームワールドの市民権を得る必要がある。でないとゲームに挑戦するどころか、ゲームワールドに入ることすら出来ない」

「え…」


"市民権"なんて物が必要なのか‥と落胆する。

国籍を取得するような物だ。

確かにゲームワールドはお金が常に動く一つの経済だ。だから法的手続きも当然必要。

もしかしたら書類やら何やら色々書かされるのかもしれない。


「それに君は、この世界に来たばかりの異世界人だから通常よりも面倒だね」

「うげぇ……」


まだゲームが出来ないと言われて、ガーンと音が鳴るほど一気に落ち込む彼女。


「早速私のゲームライフがスタートするかとウキウキしてたのに…」

「そんなに楽しかったかい?落ち込みたいのは僕なんだけどな」


そんなテンションだだ下がりの彼女を見て、経験者なのに負けた僕の気持ちも考えてほしいな…と思うマクダウェルだった。


「君はどこにも住民登録をしていないから、居住歴もない。さらには戸籍や出生証明もない。まぁここらへんは法務局に行けばなんとかなるけど少し時間がかかるし、君の個人情報が全く無いから怪しまれる可能性もある」

「じゃあどうすんだよぉ…」


いよいよ八方塞がりだが、マクダウェルは焦ることなく表情を変えずに淡々と説明していた。その理由が次の一言で分かった。


「一つ方法があるよ、時間がかからないし本人確認も要らない方法が」

「え、まじ?」


流石に諦めかけていた彼女が大声をあげて目を輝かせながらマクダウェルを見上げる。そもそも出来ないならこんな提案はしてこない、そういう優れた人間なのだと彼女はこれまでの交流で分かっていたはずだ。

マクダウェルは自身の胸ポケットから何かしらのカードを取り出した。


「このカードは僕の"フエンテスカード"だ。ワールドの入り口にプレイヤー審査機があるからこのカードをスキャンすると入ることができる」


自身が市民であることの証明をするために必要な物だ。ワールドにいる者達は皆このカードを所持している。

そこまでは理解したが、マクダウェルは信じられないことを口走り始めた。


「このカードに、君を“配偶者"登録すればいい。そうすれば君もこのカードを使える」


配偶者?はいぐうしゃ?

思わず耳を疑った。マクダウェルのカードに配偶者として登録する。つまり、目の前の男の"嫁"になる、ということになる。

遠回しに結婚しろ、と伝えているような物だ。

口をぽかんと開けた彼女は我に帰り、考える。


「うーん、まぁ別に良いか」 


彼女は特に悩むことなくそう答えた。今度はマクダウェルが耳を疑う。


「随分あっさり答えるね」

「あくまで名目上だからな。そんぐらいどうってことないだろ」


そう、夫婦関係はあくまで"名目上"。本当の夫婦でない。別に演じることもないので彼女にとって障りになることもおそらく無いだろう。 


「なら早速、婚姻手続きからだね」


すると、書類を出すかと思いきや空中に浮かんだ様々な文字が置かれたホログラムをタップし始めた。

「ていうか婚姻手続きでは居住歴は必要無いのかよ?あと私17歳だし」

「必要無いよ、年齢も関係ない。そういう"国"だ」

「……国?」

ナヅナは小さく呟くが何も聞かなかった。

この世界の技術というのは彼女が前にいた世界よりも遥かに進んでいて、空中に浮かぶ光は実態がないのに指が反応するらしい。

マクダウェルが今打ち込んでいるのは、オンライン上の婚姻届のような物。この世界ではほとんどが自動化されている自動化社会なのでこういうのもオンラインで済むらしい。

ただ、この世界にいた情報が全くない彼女の場合は別で、役所へ出向かなければいけないとマクダウェルは言っていた。この婚姻届という名のデータを役所へ提出するのだろう。


ただ一つ気になるのは、その浮かび上がっている文字がゴリゴリの"ひらがな"だった事。なんだったら打ち込んだ文字は漢字になったいた。ここが異世界なら言語は文字は全く異なるはずなのだ。そもそも彼女とマクダウェルが当然のように会話できること自体おかしい。

もしかたら本当に騙されている?と考えたが、目の前の光景がそれは間違っている事を裏付けている。

もう考えても仕方がないので、彼女は諦めた。


「あ、聞き忘れていたけど君、名前は?」


思い出したかように彼女に問いかけた。

婚姻届に書かなければいけないのだろう。

しかし、彼女は即答することなくそのまま考え込み始めた。


「名前、名前、名前…」

「どうした?」

「いや…」


しばらく顎に手を当てて考えているようだったが、意を決したように口を開く。


「名前が思い出せない…」

「え?」


両者信じられないという顔で、見つめ合う。

人間なら誰しも名前がある。その名前を忘れてしまうことなどあるのだろうか。しかも自分自身の名前を。

彼女は自分の名前をどうにか捻り出そうとしたが、全く思い出せなかった。


「私にも名前はある。あるのはわかるのに肝心な中身が思い出せねぇ…」


自分にも名前は絶対にある。それは分かっていても名前は全く思い出せなかった。

すると、マクダウェルは突然閃いたように言う。


「君と初めて会った時、"前の世界での記憶は残っているはず"と私は言ったよね。異世界に迷い込んでも元の世界にいた記憶は残ると、私は思っていた。以前迷い込んでしまった者もそうだったからね」


記憶持ちが正しいかどうかは分からないが、前例があるならそう考えざるを得ない。


「だが、君はb2にいた頃の記憶が……ない?」

「いや、ある。どんな世界だったか、どんなものを食べて、どんな生活を送っていたか、私は完璧に思い出せる」


全てを覚えていないわけではない。

親がいなかったことも、働き詰めで地獄のような環境も、美味いご飯も思い出せる。


「なのに肝心な何かが抜けている

名前だけじゃない、大事な"何か"が。」


過去の自分が見た風景をどうにか切り取って、そこに"何か"のヒントがないか、思い出そうと頭をこねくり回すが、全く思い出せない。

一体なんの弾みでその"何か"が彼女から抜けてしまったのか。

彼女の難しそうな顔を見て、マクダウェルが声をかける。


「まぁでも、律儀に自分の名前にする必要はない。届出に書く名前はなんでも構わないから、無理に思い出す必要はないよ」

「そうか…」


彼女は思い出せなくて少し不服そうな顔をしていたが、切り替えて自分の名前を考えることにした。


「呼びやすい名前の方がいいよなぁ」


しばらく、どんな名前が自分に合うか考える。

(何か私のステータスで名前になりそうなものはないか……容姿性格で名前に関連するものはないし、あったとしても思いつかん。

身長体重……いや、良くないな。というかそれを名前のオリジンとして使うのは女として嫌だな。学力とか、財力とか、いやもっと簡単なものでも、誕生日とか……あ)


「7月27日…727…なづ…ナヅナ!よし、"ナヅナ"にしよう」

「ナヅナ、ね。もう変えられないけど本当に大丈夫?」

「大丈夫。ていうか誕生日は思い出せるんだな……」

頷くと、カタカタ操作していた宙に浮かぶキーボードのようなホログラムが消えた。

ナヅナとマクダウェルはそのまま役所へ行き、婚姻届を提出。何事もなく婚姻関係が結ばれた。


「じゃあ次は実験装置について話そう」


再びマクダウェルの自宅兼研究所へ帰ってくると早速、実験装置についての説明を受けることになった。

マクダウェルは先程の実験部屋へ歩いていくので、ナヅナはその背中を追う。



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