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第一章8


 陸軍士官学校敷地内 特別応接室──。


 ところどころ紅葉を見せる雑木林を抜けた先、士官学校敷地内の一角に、旧式だが清潔に整えられた一室があった。

 その応接ソファーに鷹揚にすわり、こちらを睥睨する一人の男。


 元・教育総監、真崎甚三郎。


 皇道派の象徴的人物は、予備役に退いた今も軍内に確かな影を落としていた。


 この男の人となり、たどった足跡を藤林はよく把握している。

 そのキャリアの中でたびたび、どのように醜態をさらし、不興を買い、失望されていったのか。

 唯一、青年将校に己の都合に沿った話を吹き込み、精神的影響を放って暴発を招いたという以上の実績はとうとうなかった人物。


 永田鉄山が死亡した理由の、恐らく大本であり原因。


 こうして目の当たりにした印象も、感情が先走って事を見誤る典型的な人材というものを覆すどころか補強するものだった。

 ありていに言えば、俗物であろうか。

 藤林としての知識と永田としての記憶が、相互に補完し合ってより確信は増していく。


 それでも。

 このような人材であっても、扱いを一歩間違えれば将来に致命的な禍根を残すことを嫌という程、藤林はわかっていた。


 永田鉄山──否、藤林は、形式的には久方ぶりの、実際には初となる面談に重々しい礼をもって臨んだ。

 礼節は最大限に、だが言葉の刃は抜き身のまま。


「閣下、御身いかがでございますか」


 椅子に沈んだ真崎が静かに頷く。

 かつての覇気こそ薄れたが、目には未だ軍人としての厳しさが宿っていた。


「そんな挨拶をするために私を呼んだのかね? とりあえず永田君、相沢の件は、とんだ災難だったな」


 その声音には、慰めと同時に何かを見透かすような色があった。

 「惚けたことを……」と思ってもおくびにはださない。

 藤林は静かに首を横に振った。


「私が受けた傷など、些事に過ぎません。まあ単刀直入にいきましょう」


 藤林は、封筒を差し出した。

 相沢事件の全貌、陸軍内の分裂状況、そして青年将校たちの動向。

 すでに陛下にも上奏されたものと同一の、事実を網羅した文書だった。


「……軍内における相沢と同様の思想、発言、人間関係を網羅し調査したものです。ここまで言えばもはやおわかりでしょうか」


 じろりと視線を向けただけで、封筒を手に取ろうともせず、真崎甚三郎はしばらく無言だった。

 だがやがて、おもむろに軽く咳払いをしてから言った。


「……君の言いたいことは、わからんでもない。だが、私の知る限り、皇道派とやらが“叛乱”を企てているなどという話は、根も葉もない噂に過ぎん」


 声に抑えきれぬ冷笑が滲んでいた。


「将校が不満を持つことはあろう。だがそれが即ち、“叛逆”に繋がるなど、過敏に過ぎる。私はもう現役ではない。若い者たちが何を考えていようが、関知する立場にはないのだよ」


 藤林は、わずかに目を細めた。

 真正面からの否認。

 すなわち、しらばっくれだ。


 ──さすが、老練。


 彼は机の上に手を置き、丁寧な声で切り出した。


「確かに直接的に閣下が指示したり、命令をされているという証拠はありません。実際、そうなのでしょう。あなたはあくまでも『ただお話をされた』だけに過ぎない。自分が更迭された主観的な理由と、関係者への感情的人物評を。……では、もし万が一の事が起きたとき、“真崎閣下は関知していなかった”と、軍の上層部も、世間も、そう受け止めてくれるでしょうか?」


 真崎の目が細くなった。

 沈黙。

 わずかに空気が張り詰める。


「私が言っているのは、将官としての“責任”のあり方です。すでに陛下は、陸軍の内乱を看過し得ぬとの大御心を示されました。これ以上、皇道派系の者たちが暴発するような事態があれば、彼らが信じる“尊皇”の理念そのものが、否定されることになりましょう」


「……脅しかね?」


「いえ、進言です」


 その瞬間、藤林の声音がわずかに低くなった。


「閣下の威信を保ちつつ、事態の収拾を図る方法を、私はご用意しております」


 真崎が眉をひそめた。


「ほう? それは?」


「陛下の御側近、すなわち侍従武官長付近の職務。閣下ほどのご威徳があれば、推薦に不自然さはございません。

 皇室に仕えるという大義名分のもと、政治的立場を離れ、軍務から一定の距離を取っていただくことができます」


 ……そう、“栄転”の名を借りた、幽閉に近い処遇。

 だがこれが真崎の名誉と、軍内の均衡と、国家の安定を同時に保つ、唯一の「妥協案」だった。


 老いた軍人は威嚇するように鼻を鳴らした。


「要するに、口を出すなというわけだな」


「違います。“お言葉”を陛下に直接伝えうる、唯一の立場に就いていただく。

 いざというとき、正義を語る口が、軍内に一つ残る。それが閣下であれば、皇道派も、静かにその場を得るでしょう。なにより……」


 しばし、沈黙が落ちる。

 外では木枯らしが松を揺らしていた。


「陛下へ直接的に進言可能なお立場を、お望みだったのではありませんか?」


 真崎がさんざん、あらゆる手段を講じて、時には宮家を利用してまで意見具申を行おうとしていたことは後世でも有名だった。

 そしてそれがためにこそ、この男は皇室からとかく疎まれ敬遠されることになったのだが。

 恐らく当人はそもそもの己の更迭、左遷の憂き目が自分のなしたことが原因などとは想像することすらできないのかもしれない。

 己の思う行為の正しさしかみえず、そぐわぬ結果はすべて自分以外の所為とするしかないのだろう。


 つまりは愚物としか言いようがない。


 だからこそ、この処遇を藤林は決定打として使うことを決めたのだが。


 真崎は天井を仰ぎ、息を吐いた。


「……なるほど。君は、私の志を潰しに来たのではない。生かす道を持ってきたわけだ」


「ええ。閣下の志は、血によってではなく、未来によって証明されねばならぬものと、私は考えます」


 我ながら心無いことをと思う。

 まず間違いなく、この処遇によって真崎は陛下及び皇室関係者からのさらなる軽蔑と反感を買うことは確実。


 うまくいくはずがない。

 より近くで直接的に接する機会を増やせば増やすほど事態は悪化するはずなのだ。


 だからこそ都合がいいのだった。

 そうして陛下の不興の様が漏れ伝わるようになれば、真崎を持ち上げていた青年将校たちの気持ちに大きく水を差すのは必至。

 この真崎甚三郎という人間が持っていた限定的かつ部分的にもかかわらず、致命的だった影響力の完全なる排除こそがこの対応の目的に他ならない。


 静かに席を立ち、窓の外を見る真崎の背中を、酷く冷徹な藤林の視線が貫いていた。


「……いいだろう。陛下の御側近というならば、我が身を捧げるにやぶさかではない。だが、その間、君のやり方が間違っていないか、私は見ているぞ」


「光栄です、閣下」


 こうして、かつての皇道派の精神的支柱は、もう一つの歴史とは異なる人生の一歩を踏み出すことになった。

 その決断が、後の日本の命運を大きく変えることになるのは誰も知らない──。


 ただ一人、永田鉄山こと藤林を除いては。



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