第一章7
陸軍大臣官邸の執務室に、重苦しい沈黙があった。
黒檀の威圧感溢れる巨大な机の上には、分厚い封筒が一つと、ファイリングされた紙束。
その表には、永田鉄山軍務局長の署名と、「極秘 天覧用」と記されていた。
封筒の中身は、相沢事件の詳細な経緯、現下の陸軍内部の派閥対立の深刻さ、さらに独自に収集・分析された「不穏分子による大規模蜂起の兆候」に関する報告書であった。
未来から来た藤林が、昭和十年の現実に即して裏を取り、極力「ありえる事実」の形に整えたレポートだった。
それは単なる予測ではなかった。青年将校の動向、屯営内の不穏な発言、密かな動員準備。
教育総監更迭に関する怪文書の存在。
北一輝という思想家の存在、影響が齎したもの。
すでに起こることを事前に知っているからこそ可能な、恣意的に集められた証拠の数々。
全てが確かな「兆し」として、見るものに訴える力を持っていた。
藤林は静かに立ち、それを前にした己の立場上の上司の反応を見定めようとしている。
林銑十郎陸相は普段の飄々とした様子は鳴りを潜め、事態の深刻さを憚ったように寡黙だった。
彼はしばし封を切ることなくおかれている封筒に無言で目を落とした後、低い声で問うてくる。
「これは、どこまで……確かかね?」
「陛下に御覧いただくに足るものと信じております」
「もはや引くにひけぬところまで来たとは、相沢の件で思っておったが。真崎めが……」
ふぅっと重い溜息をついた。
沈黙。
やがて林は椅子に腰を深く沈め、封筒を手に取った。
「……よろしい。私の責任で、拝謁の機を求めよう」
それから数日後、宮中。
御文庫において、林銑十郎から提出された報告書を静かに受け取り、数十分にわたり黙読する御姿があった。
ページを繰るたび、青年将校の名、屯所、言動の記録、そして統制派高級将校への殺意の芽吹き、粛清対象と目される政治家・軍指導者の具体的姓名が網羅された内容に、その眉は確かに動いた。
最後の数ページには、永田鉄山の私的意見として、現在の陸軍内情がこのまま推移すれば、遠からず一部の将校が「叛乱」に及ぶ可能性が高いこと、またその際には国家の危機のみならず、御名御璽の権威そのものが地に落ちるであろうとの進言があった。
林が玉顔を伺ったのは、そのときだった。
聖上の君は静かに、しかし確かに言葉を発した。
「叛乱など……まかりならぬ。ましてや朕の意を騙るなど」
一切表にはでていない。
普段と変わらぬ御声音の響き。
だがそれゆえにこそ、頑として強く固くお含みになられている激しい怒気が伝わってきた。
青い業炎。
およそ臣たるものの範疇を超えた不遜不敬への憤りと冷徹な意志。
「『奸』とはまさにそれである」
決定的な一言であった。
この一連の反応は軍内に瞬く間に広まることになる。
林は宮中の威を背景に、皇道派の動きを水面下で牽制し始めるも、もはや大勢は決したも同然であった。
他にどう解釈しようもない毅然とした御深慮の在り様に、青年将校らは「陛下の大御心はすでに明らか」として、少なくとも武装蜂起を行う気概はなくなったのであった。
(これでやっと……)
陸軍省の執務室で、報告書の上奏とその後の顛末を反芻した藤林は運命を変えつつある確かな実感を持っていた。
だが、この件はここで終わりではない。
226蜂起の可能性を完全に潰すには、さらにやるべきことがあった。
「真崎甚三郎に会う時がきたということだ……」