第一章6
陸軍省、会議室──。
表向きは定例の人事調整会議という触れ込みだったが、実際にその場に呼ばれたのは、永田鉄山こと藤林が今の時点で『使える』と判断した少数の将校たちだった。
軍務局課長の武藤章、同じく影佐禎昭、根本博、調査部長の富永恭次──。
後世にはその能力、判断力に疑問を持たれる者もあるが、直接面談することで少なくとも現時点で部下として用いるには有用な秀才であることは確認している。
扉を閉め、外に事務官を下げさせた後、藤林は口火を切った。
「本日の議題は、いわゆる人事の件ではない。諸君にはこの国の命運を左右する、極秘の協力をお願いしたい」
室内に一層の緊張が走る。
藤林は立ったまま、ゆっくりと周囲を見渡し、手元の書類に一瞥をくれた後、重々しく言葉を続けた。
「私は遠からず青年将校を主力とした大規模な暴発、軍事蜂起が発生すると見ている。そこで秘密裏に調査を行い、危険性を網羅した報告書を作成したいと考えている」
影佐がわずかに眉をひそめた。
「反乱……と仰いますか」
重々しく、ゆっくりと頷いた。
「忘れてはならん。相沢三郎中佐が、私を白昼堂々、陸軍省内で斬りつけた。しかも、周囲には我々に敵意を持つ者も少なからずいた。これを狂信者の単独犯として片づけるのは容易いが──そうではない。あれは、氷山の一角だ」
机の上に静かに手を置きながら、彼は続ける。
「やつは言った、“天誅”と。つまり、すでに我々は“国家の敵”と見なされ、処刑の対象にされている。それが軍内部で黙認され、暗黙の支持すら得ている。そうした雰囲気が、あの大胆不敵な襲撃を可能にしたのだ」
根本が低く呻いた。
「……内部からの蜂起は、すでに始まっていたと」
「そうだ」と、静かに応じた。
「私はこの傷を、単なる恨みではなく、“予兆”と見ている。例え一見単独犯に見えようとも、佐官という組織の中枢にいる者が、自らの意思で刀を抜くとき、それは一定の集団から思想的許可が与えられている証だ」
沈黙が落ちた。
誰もが、藤林の言葉の真意を理解しつつあった。
富永が低い声で問う。
「報告の行き先は?」
藤林は一拍置いて、明確に答えた。
「林閣下を通じて……」
一同の顔に緊張が走った。
「陛下に」
ああ、その重み。意味と価値。
この時代に生きるものならば誰もが共通して持っている。
否応なく彼らは理解せざるを得なかった。
この報告書が何をもたらすのかを。
「畏くも聖上の君に軍内の規律崩壊としか言いようがない状態を御覧いただくのは、問題がありますまいか。軍部の自律能力がないことを自ら証言することに他なりますまい。下手をしたら永田さんがご不興を買うことになる可能性もあるのでは」
たらりと流れた冷や汗を拭うように顔を撫でながら、武藤はいう。
『こんなことに巻き込まれて大丈夫か』という俗物的自己保身と、派閥の上役たる永田への義理にへつらい、そして純粋な恐怖がそこにはない混じっていた。
だが藤林には確信があった。
決してこの時代の今上陛下は、この上奏を無下にはしないことを。
その御心がどこにあるのかを。
平成令和の人間だからこそわかる、226事件の顛末、陛下の反応。
『速かに暴徒を鎮圧せよ』
『朕みずから近衛兵を率い、鎮圧に当る』
『真綿にて、朕が首を絞むるに等しき行為なり』
……。
この時点での日本軍の誰もが未だに定かならぬものとして、幻想の彼方にしている御心の内を現代人である藤林は完璧に理解していた。
(昭和天皇陛下は決してこの奏上を無下にはなされない、いや、されるわけがない)
武藤章のどろんとした感情をなみなみと溢れさせて濁った瞳をキッと見返し、はっきりと断言した。
「相沢の件で我が身に起きたこと、その背景にある腐敗と対立、そしてこれから起きるかもしれぬ最悪の未来を、御前に確認いただく所存だ。御聖断などというのは不遜ながら、一言でもご憂慮いただくお言葉を頂戴できれば影響大なることは明らかだろう。その後の綱紀粛正・規律回復についてはおいおい順をおってやるつもりだ。その際には東條を呼び戻して使おうと思っている」
あの能吏官僚的人材の最も有効な活用であろう。
実際に正史でも、226事件以降の組織立て直しと再統制は彼がやったのだから。
そして最後に一言、「すべては私の全責任、諸君らの今後に一切の影響がないように取り計らうから、そう心得たまえ」と付け加えた。
思惑どおり、逡巡と及び腰で青ざめていた一同の顔にようやく血の気が戻ってきたのを確認する。
「相沢は、私を斬ろうとした。しかし──それは私だけを斬る刃ではない。このまま放置すれば、あの刃は、いずれ国家そのものに振るわれる。それを、我々が止めねばならん」
机に置いた手を軽く握り締め、永田こと藤林は静かに言い切った。
「これは、未来の日本を守るための最後の機会だ。諸君の力を貸してほしい」
令和の日本人、自衛隊員としての言葉だった。
例え今時点でその真意を理解できるものはいないとしても。
男たちの視線が、藤林のもとに静かに集まっていた。