第一章5
「これはまた……。『結果的に』とはいえ、永田サンは認めてくれたもんだとおもってましたがな。今更それを持ち出しますか?」
ぎらりと。
飄々としたものが鳴りを潜め、剣呑な光がその瞳に宿った。
これが石原莞爾の本質。
どれだけ普段は表に出さずに隠していようとも、一度有事と見れば漏れ出る天才武人の本性。
世界を見通し、日本のあるべき軍略を常に模索して実現せんとする、破格の大器。
ともすれば気後れしそうになった。
今この時代、この場所で最も口にしてはならない禁句の一つだったのは間違いない。
およそ現代の自衛隊員には荷に勝ちすぎるほどの相手であり話題なのは明らか。
──満州。
かつて目の前の石原が日本の大陸権益、ひいては総動員体制を実現するために描いた大構想の一端。
資源、経済、地政学的位置、あらゆる理由で欲し求めた場所。
すでに八紘一宇・五族共和のスローガンのもと、新たなユートピアとして、機能し始めている状況のはずである。
史実では永田鉄山も全面的にバックアップしていたという認識を現代人、藤林は持っていた。
だが、この石原の態度を見る限り、実際にはそう単純な関係でもなかったらしい。
消極的肯定。
あるいは部分的否定。
永田の態度はそんな全面的賛同とは言えない類のものだったのだと知る。
ならば余計に好都合。
元からこういったことを言い出しかねない心証があるならば。
「キミの満州獲得論の主眼は対ソの橋頭保、防衛拠点としての地政学的価値、かつ資源獲得を目指し経済権益を確保することが理由だったな」
「さよう、今の日本が来るべき大戦、おそらくソ連、のちに……アメリカとの最終戦を勝ち抜く総力体制を築くためにはなくてはならん場所なのは明らか。そんなことはとっくにアンタもわかってるはずだが?」
厳密にはそれにとどまるものではないのだろうが。
戦後の記録では、石原はすでにこの時点ではっきりと「満州国の独立」という、荒唐無稽とすら思える領域に思想を先鋭化していることを藤林は知っている。
だが、今はそこまで踏み込む必要はない。
目の前の男から苛立ちがゆらりと立ち昇るのがわかる。
こちらの呼び方もずいぶんぞんざいになったものだ。
だが、これもまた石原らしいと思った。
「確かに地政学的にあそこを押さえていることの意義は大きい。北ユーラシア対策として、先の日露戦以来の我が国のドクトリンに適ったものなのは間違いない」
「でしょうに」
被せ気味に、やるかたないといった様子で鼻息を出す石原。
「だが」
そう、この男が恐らく最も指摘されたくない、想定外のことが一つ。
未来をしる現代人の藤林だからこそわかる、その致命線。
自分が今もてる唯一といっていい、武器。
この傑物をすら一歩引かざるをえない、致命的弱点。
石原の満州構想を根底から覆す、不都合な真実。
「石油はでなかった」
「……っ」
ぴくりと。
石原の肩が微かに揺れたのを見逃さなかった。
「満州建国以前から、今もずっと必死でやっているのだろうが。でも決して色よい結果はでてきてないのだろう?」
「……」
「想定ではすでに阜新あたりで実用的な油田を発見できてるくらいの目算だったんだろうが。一向にそんなもんの気配はなかった……ようだな」
「……ありゃ、調査と試掘の方法がよくないんですよ。今にでます。地形からいってでないわけがない。あそこは石油資源の埋蔵地に違いない」
まるで自分に言い聞かせるような言葉。
藤林は初めて目の前の男からプライドを刺激されたような苦しみを感じた気がした。
追い込みをかけるのはここだと。
さらに徹底的にその希望を打ち砕かなくては。
「断言しよう、石油は出んよ」
嘘である。
大慶油田。
のちに、大日本帝国が無くなってから中国が発見することになる。
あれほど喉から手が出るほど欲しがっていたものが、その後よりによってかつて攻め込んだ敵対国に発見される皮肉。
歴史のアイロニー。
そしてこの石原という男にとっても。
「なにをっ」
「もうわかっているだろう、満州建国を強行したキミの要望などこれ以上採用されはしない。はっきりあの一時で陛下から不信を持たれてしまったのだから。今後おそらく石油調査の人員と体制は他の、恐らく南方あたりにめどをつけてそちらに注力されるようになるだろう。軍務局長の私もこれ以上の後押しは難しい」
南方戦略の一端。
史実でもこれは明らかであった。
そしてこの流れこそが、永田亡き後の主導権争いに影響をもたらしたのは間違いないだろう。
石原は満州という前科によって発言力をはく奪され、やがてはあの東條にいいようにされるのだ。
すべては石油。
最重要目的とされながら、結局満州運営でこの国が手にすることができなかったもの。
「じゃあ。ならばアンタはどうすればいいってんだ?」
ようやく。
ようやく石原莞爾という男が自分の言葉に本気で耳を傾けつつあることを悟った。
ならばとりあえずの目的は達成と考えていいだろう。
「キミとかねてから話してきた対ソ対中構想、そしてその先について確認したいことがある。また場を改めて時間をくれないかね?」
石原は黙然としながらも、抜き身の刀のような気迫と視線のみで回答してきた。
(まずはこれでいい)
日本の命運を変える第一歩を踏み出した実感を藤林は感じていた。
そしてまたもう一つの懸案に取り掛かる覚悟も。
やらなくていけないことは膨大で、限りなかったが、その闘志は萎えることなくいや増す一方であった。