第一章4
翌朝、永田鉄山こと藤林は、陸軍省からほど近い参謀本部庁舎へと足を運んだ。
夏の朝の光はすでに鋭く、空気は蒸し重くまとわりつく。
それでも、昨夜とは違い、心にはある種の張りつめた静謐さがあった。
いよいよこれからあの伝説の男と会うと思うと嫌がおうにも緊張が増していく。
石原莞爾。
奇才にして異端、謀略で国家を作ってしまった男。
戦争の発達を次元としてとらえ、集団から横陣へ、塹壕による散兵戦術、多種機能戦闘群の発生にいたり、やがては航空機の出現で制空権争いが要となることを一次元から三次元への漸進進化と説明した。
さらには大規模殺傷兵器、最終兵器の誕生による大国間の終末的最終戦状態を予想。
第二次大戦後の核による冷戦状況を早くも予言していたとしか思えない、異常ともいえる先見性。
まず尋常の人間ではない。
当時としても、いや、下手をしたらその後の時代を俯瞰しても二人といない天才かもしれない。
自衛官として平成令和を生きてきた藤林にとってはもはや伝説そのものといっていい存在だった。
その彼がもうすぐそこにいるという。
「ああ、新任の石原参謀はあまり席にいませんな。たぶん裏の方かと」
参謀本部の入り口で捕まえた下士官に誰何した時の答え。
正直、建屋内に入るのは気が引けたから好都合ではあった。
悪目立ちしないにはかぎる。
しかし、それにしても任官したばかりにもかかわらず参謀本部の自席に落ち着かずふらふらしているとは、あの伝え聞く異端の人物像そのままの様子にくすりと笑みがこぼれる。
参謀本部庁舎の裏手、小さな庭の一角に、古びた欅の大樹が一本立っていた。
その木陰の下、まるで修行僧のように両足を天に突き出して逆立ちしている男。
「……まさか、あれが?」
声をかけると、男は驚いた様子もなく、逆さのまま首だけを回してにやりと笑った。
「おや、永田サン。おはようございます。こないだの一夕会以来ですかな」
よっと掛け声とともに足を降ろしてこちらを向いた。
額に汗がにじみ、しかしその瞳には疲れではなく、底知れぬ光が宿っていた。
「まだやることもなくてね。どうも腫物扱いみたいですな。よっぽど満州のことで睨まれておるらしい」
まるで少年のように笑う。
だが、その言葉の裏には皮肉が混じっていた。
「昨日のことは聞き及んでおりますよ、災難だったようで。永田サンが殺されかけたというのに、陸軍省も参謀本部もやけに静かなもんです」
どうやら石原は永田のことをサン付けで呼ぶらしい。
しかもその響きには心からの尊敬というより、どこか揶揄めいたものがある。
あの東條の格式ばった、堅苦しい呼び方との違いを意識せざるを得なかった。
あちらにはこちらが敬遠したくなるほどの暑苦しい一方的な想いがあったようだが。
あまりにも対照的な軽く皮肉な物言い、言葉の響き。
そして永田鉄山としての記憶は、まさにこれこそが石原莞爾という男を端的に表象しているのだと納得する。
「静かだからこそ、危ういのだろう」
藤林は声を低くして返した。
「派閥対立が、いよいよ看過できぬ段階に来ている。昨日の件は、その火口だ」
歴史を知る者として切実な言葉となってしまう。
石原にどれだけ通じてくれるのか。
「同感ですな。陸軍大学校を出た我々が、昭和の御代に至って血みどろの内部闘争を演じるなど、滑稽千万」
一応、統制派たる永田のもとにいるが、その視点は派閥争いなどとは次元が違うところにあったことを感じさせる言葉に安堵する。
ああ、石原とはやはりこういう男だったのだ。
きたる、二・二六事件においても、皇道派のクーデターを蛮行として一蹴、ひたすら組織統制と事後処理に奔走したらしい。
それでいて永田の後を継いだ東条と激しく対立し、やがては軍事指導部から排除される憂き目にあう。
やはりこの男しかあるまい。
これから自分がやることの最大の力になるのは。
「……皇道派をどうするおつもりで?」
軽い調子だが目は笑っていない。
「キミはどうみる?」
「難しいでしょうな、とにかく私も永田さんもエラく嫌われ者ですから。やつら話なんて碌に聞きゃあしませんよ」
「うん、だろうな。だからまあ、そちらについては腹案がある」
「ほう」
そう、元より石原に派閥問題の解決を頼ろうとは思っていなかった。
恐らく、「向いていない」のだと事前知識で持っていた人となりと言動でおおよそあたりはつけていたのだ。
そしてこうして直接会うことでさらに確信を深めたのだった。
この男に頼りたい、任せたいとおもっているのはまた別の事。
「石原君」
ごくりと生唾を飲み込んだあと、日本の運命を変えるべく構想していた一大方針について、藤林はとうとう切り込んだ。
「満州の権益を放棄すると言ったら、キミはどう思うかね?」