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終章2



 ──永田局長の左側身辺に急遽無言のまま肉薄したるところ



 首だけで窺うと、何者かの顔が目の前にある。

 煤塗れかのように黒く汚れ切った顔、爛々と明らかに正気を失った瞳だけが光っていた。


「な、ながたぁぁぁっ! か、奸賊ぅぅぅっ!」


 伸び放題の髪と髭で全く誰ともつかない風貌であったが、その声にどこか聞き覚えがあった。


「あ、あいざわ……?」


 あの相沢事件で本来は永田鉄山を殺害していたはずの男。

 そして死刑になる運命だったはずの。


 ずくん。

 右下の腰あたりの違和感が凄まじい。



 ──同局長の背部に第一刀を加え同部に斬付け


 

 熱い。

 いや、痛い?


「天誅ぅぅぅっ!!」


 ずぼっと何かを引き抜かれるような感覚のあと、再びまた別の場所を違和感が襲う。

 遠く、距離を取ってついてきていた護衛が叫び、動き出す気配。



 ──のがれたるを追躡ついじょうし其の背部を軍刀にて突刺し



 そして藤林はようやく思い出しつつあった。

 あの事件の後、軍事裁判にかけられた男がどうなったのか。

 本来の歴史とは異なる結末を迎え、数年の懲役刑を受けたことを。


「き、きさまさえ……、貴様さえいなければぁっ!!」


 ざくざくと。

 何度も何度も衝撃が背中を襲ってきた。

 同時にようやくたどり着き制止しようとする者たちと掴みあい、もみ合うのを胡乱に把握する。

 だが自分が命そのものを漏出して、取り返しがつかないまでに失いつつあるのを感じた。



 ──更に同局長が応接用円机の側に到り倒るるや其の頭部に斬付け〜以て殺害の目的を達し



 がくりと膝をついたのち、硬い地面の感触を頬に感じたような気がした。

 そしてその時にはもうすでに何もかもが暗転し、藤林の意識は虚無の中へとどこまでも沈んでいった。



 ………。

 ……。

 …。



「……さん? 藤林さん?」


 目覚めると、藤林は真っ白な天井を見上げていた。

 漂う消毒液の匂い。ベッドの傍らからのぞき込むように声をかける看護婦らしき女性。


「だ、大丈夫ですか? 先生っ! 先生ーーーっ!」


 視界から消えていった。

 その声に混乱した思考が揺らぐ。


 フジバヤシ?


 永らく呼ばれたことがない、懐かしい響き。

 だが、その名は確かに自分のものだった。


 ぼんやりと、状況がまるで分らぬままただ天井を眺めていると、若い白衣の男がまた視界に入ってきた。


「ここは……どこだ」


「事故の後、病院に運ばれたんですよ。大きな怪我にならなくて本当によかった」


 医師に向かって首を回すと、その向こうに薄灰色の壁とハンガーに掛かった制服が目に映る。

 そしてそこには「藤林健」の名札が。


「も、戻ってきた……? いや、すべては夢……?」


 あの膨大な時間の、一人の男としての半生がただの昏睡状態に見た幻だったのかと。

 今だ定かならぬ意識のまま、自衛隊員服が郷愁めいたなつかしさと共に現実感を齎してくる。


「ああ、無理しないでください。三日間も意識がなかったんです」


「み、三日……?」


 あの膨大で濃密な時間感覚が。

 まさに胡蝶の夢ではないか。


「まあしばらくはゆっくりしてください。大きな損傷はないとはいえ、あの事故ですから。奇跡的でしたよ」


 言いながら聴診器を使い、診察を終えるといなくなった。

 代わりに戻ってきたような看護婦と二人。

 細々と診療道具の片づけをしているらしい。


(なにがなんだか……)


 少しづつ、しかし確実に理性は認識を促していく。

 ようやく状況を解釈し、呑み込もうと機能しはじめつつあった。

 やはりあれは現実ではなかったのかと。

 訓練中に事故にあい、自分は昏睡状態に陥っていたと。


 とても長い、永い主観感覚の夢を見ていたらしい。

 そう、ようやく何もかもが肉体の異常事態に反応して起こった非現実の妄想であったのだと納得し始めたそのとき。


「ん……? あ、あれは……?」


 見慣れたはずの自衛隊制服の一部に違和感を感じる。

 襟元に金字で縫い付けられた何かの形象。


 ……菊花紋?


 なぜ。

 まさかと。


 目にしたものの実在と意味を理解できず、わが目を疑った瞬間。


 外から凄まじいまでの轟音が響いた。

 ビリビリとまるで地震のように部屋が揺れる。


「なっ!?」


「あら、祝砲ですわね。そういえば今日でしたわ」


「しゅ、祝砲だって? あれがっ」


 尋常な音じゃない。

 あの重さと響きは、ただの大砲などではない。

 少なくとも、自分の記憶にある、祝砲で扱われるどんなものともそぐわない。

 と、次に看護婦が口にした言葉に頭の中が真っ白になった。



「皇紀2690年の祝日は」



 看護婦が窓際へ歩み寄り、カーテンをさっと開けた。


 ──光の中に、青い海が広がっていた。

 そして、そこに浮かぶ、巨大な影──

 見まごうわけがない、その姿。


 戦艦大和。


 令和の時代にあるはずのない、伝説の巨艦。

 その威容が、陽光を受けて輝いていた。


「……そんな……まさか……っ!」


 思わず飛び上がり、看護婦を押しのけ、窓辺に体を乗り出して呆然と立ち尽くす。

 しかし、確かにそれは現実だった。

 潮風の匂いも感触も、瞳を刺す光の痛いほどの眩ささえも、すべて本物。


 ならば。


 かつて己が命を賭けて変えようとした未来。

 その結果が、ここにある。

 自分の知る世界とは異なる、もうひとつの日本が。


「はは……、そうか……。そうかぁ……!」


 未だ茫然として、理解は全く追いついていない。

 ただ、自分の創り上げた歴史がどのような結果をもたらしたのか、これから確認する時間がたっぷりとあることだけは間違いなさそうだった。




 完

参考文献:相沢事件第1審判決文、北博昭『二・二六事件全検証』朝日選書、2003

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― 新着の感想 ―
あっ……打ち切りか。 途中まで面白かったので残念です
全編良く調べられて書かれているのに感心しました。とても労作だと思います。 ご苦労様でした。 面白かったです。
これは本当に書きたい小説の試作であってほしい。 次の作品も楽しみにしてます。
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