終章1
1939年、ドイツがポーランドに侵攻。イギリス、フランスがドイツに宣戦布告、第二次世界大戦がはじまる。
1940年、ドイツによる欧州の席捲、イギリス本土への攻撃開始。
1941年、ドイツ、ソ連に宣戦布告、独ソ戦勃発。
1942年、ドイツ、モスクワ占領。決定的な成果を上げるも、シベリアの奥深くまで引いたソ連の抵抗、占領統治に多大な労力を費やすことになり、その後戦況は停滞。泥沼の消耗戦が始まる。アメリカは一貫してヨーロッパへの直接的関与を行わず。広大な占領地を抱えたままドイツの拡大も止まり、大停滞時代始まる。
1943年、アメリカの消極的態度に対する反独勢力の不信が高まっていく。世界から孤立したかのようなアメリカと日本の静かな対峙が続いた。
1944年、日本の総力戦研究所の試算で初めて対米戦の勝率が3割を超える。
禁油措置以来、完全に反米一色になっている国内世論、政治指導層、軍部の開戦機運が限界まで高まる。
陸軍大臣であった永田鉄山が内閣総理大臣に。永田内閣発足。開戦に備えた組閣として圧倒的に支持された。
同時に陸軍省と海軍省を統合した軍務省の発足と軍務大臣制開始、初代軍務大臣に山本五十六、次官に阿南惟幾。以降、陸海両軍の代表それぞれが大臣と次官を交互に就く形に。
……そして1945年。
「誠にお世話になりました」
東條英機は晴れ晴れとした顔で言った。
永田鉄山の執務室、そこに迎え入れられたまま、直立不動の姿勢で。
かつて最初に目にした時には印象が大分違っていたのが、今ではすっかり『あの歴史』で見知っていた肖像と同じ骨柄顔貌である。
強いて言うなら、その軍服の胸にかかる勲章の数と大きさが異なるくらいであったろうか。
「……いいのかね? 軍務とは違う世界でもまだ君の手腕を発揮する機会があるかもしれんが」
思わず口をついて出た言葉に、藤林は我ながら驚く。
かつてあれほど危険視していた男のはずだったのにと。
「私は軍人以外のことはわからんですよ。虚実定かならぬ腹芸だらけの水商売は性に合いませんな」
ははっと笑う様は、清々しいほどに何らの未練も感じられない。
軍部の権限を掌握するために設立し、適任と確信した男に任せた統合情報局。
陸軍以外も含めた国家全体の機関として内閣直下の組織に再編されることが決まり、合わせて辞意を述べてきた東條に慰留を促すなど。
だが、己が知っていたはずの戦争責任者、あの大戦の元凶たる戦後のイメージとあまりにもかけ離れた風情に、我知らずの衝動であった。
歩む道さえ違っていたら、こうも変わるのだろうか。
それとも……、東條英機とは本来はさほどの危険性もない存在だったのか。
重すぎる責任、高すぎる立場ゆえにああならざるを得なかったと。
権力と、時代に狂わされた人間の一人だったのかもしれない。
そう、平成令和における戦争犯罪人の代名詞たる男を、初めて真っすぐ、曇りない想いで見る気がした。
「残念だ。君は今ではもう数少ない慎重派だったからな」
心からの本音であった。
今直面している国家の運命を左右する危機において、今やこの男こそが唯一といっていいほどに自分と志を一つにしていたのであったから。
「私は生粋の永田派ですので。……今後お力添えできないことは誠に心苦しく思いますが、昨今の風潮はもはやどうしようもありますまい」
「久留米から呼び戻して、あの組織を任せてから、本当によくやってくれたが。君をもってしても時局はどうにもならん……か」
「ふふ、不思議ですなぁ、近頃はよくあの頃を思い出しますよ。閣下が皇道派の将校に切りつけられたあの時。……何故、私は上京しようと思ったのか」
遠い目で遥か彼方を見通すように、東條は言う。
「本来はそんな予定はまるでなかったはずなのですが。……ふと、急に思い立ったんですな。今、帝都に帰らんと。絶対に戻らねばならんと。そうしたらあのようなことに出くわすのですから。虫が知らせるとは、まさにあの事だったんでしょうな」
「……」
藤林がこの時代に来たまさにその時。
永田鉄山が命を落としていたはずのあの場所。
本来は東條はいなかった?
因果の狂いへと刹那に意識が囚われる。
「ああして閣下が無事に済み、ご挨拶叶ったことで私の道も随分と開けた気がします。そしてこうして奉職叶い、無事勤めあげられました」
東条の感極まったような言葉に、遊離しかけた心がまた戻された。
何かとても重要なことに思い至ったような気がしたのだが。
掴みかけた何かはまた、胡乱で混沌とした概念の彼方へと泡沫の如く消え去った。
そしてただ厳然として存在する過酷な現実へと引き戻される。
「それでは。お傍になくとも、常に閣下の御健勝を祈っております。……ご武運を」
最後の言葉は、戦いに赴く者への餞以外の何物でもなかった。
(すべて無駄だったのだろうか……)
夕暮れに煙るように霞む川辺の光景を遠く望みながら、一人思う。
近頃ではすっかり日課になったひと時の散策、送迎車を待たせたまま降り立ち、国家の頂点に立った男はゆっくりと力なく足を進めていく。
あの石原莞爾の死後、ここ数年の記憶が怒涛のようによみがえっては消えていった。
突然、何の脈略もなく発表されたアメリカによる禁油措置。
満州建国と中国での権益活動が世界秩序を乱しているなどという、取ってつけたような理由が表明されたものの、ただの名目以上の何物でもないのは明らかである。
特にあれほど下出になって、融和的態度を取っていたから猶更、政治指導層も国民もその怒りと反発は激しかった。
それを助長するかのような『あの油田』の発見。
まさに最悪のタイミングとしか言いようがなかった。
日本にとって最大の懸念を見込んで足元をすくったつもりだったのであろう、アメリカの最後通牒ともいえる拒絶挑発の直後に、解決の目途が立ってしまうという皮肉。
これだけ『舐められた』対応を取られたのだから、この時代の国家として明確な敵意のもと戦争手段に訴えることを望むのは当然かもしれなかった。
だからそれからの藤林の命題は如何に開戦の機運を抑え、先送りにするかということに尽きた。
道理で言えば、もはやアメリカには依存せずに独立した生存圏を確立したのだから、戦争をする意味などなかったのだ。
しかしそんな理屈など、すでに誰も聞く耳は持たない。
かつて日本の運命を変えるべく持ち出した方便、来るべき王覇大戦に向けて雌伏し国力を充実するというお題目。
最終戦争論。
あれが現実的な目標となって、今や完全に藤林の想いを阻む障害そのものになってしまった。
なによりアメリカの一連の対応は「何時向こうから先制攻撃されるかわからない」という絶対的なまでの不信をもつに十分なもの。
そう指摘されてしまえば、「いや、それはない」と断言することができないのもまた事実であった。
むしろ、あまりにも己が知る歴史とかけ離れているとしか思えない米国の在り様に、藤林自身、自分の信念が揺らぎそうになるのを必死で保とうとすることしかできない始末。
だからできることなどせいぜい、『完全なる勝利の算段が付くまでは徒に戦端を開くべからず』という方針を示すことくらいであった。
気が付けば総力戦研究所による勝率の試算報告だけが、開戦判断を抑える唯一の説得材料になっていた。
だがそれさえもいつしか真逆の意味合いを持つに至る。
元々、本来は「如何に無謀な戦争をさせないか」を目的に設置した機関のはずだったのが。
結果的には「何時戦争ができるようになるか」を導いてしまうものになってしまったという、まさに皮肉であった。
そうしてついに勝率が5割に近くなった今、もはや開戦を阻む方法は完全になくなってしまった。
国家指導者の立場であればこそ、阻む手段があるものと総理大臣になったはずだが、結局は己自身で実行する立場になった。
もちろん、すべてを投げ出して辞することも考えたのだが。
身を引いたところで誰か他の人間がやるだけなのだから、それならばまだ自分自身がやった方がマシだと思ったのだ。
そして今まさに宣戦布告と共に行う奇襲攻撃の内容も固まった。
実行予定日は1945年8月15日。
奇しくも本来の歴史で迎えた、あの運命の日。
まるで悪魔の差配した滑稽劇のような運命の皮肉に、茫然と夕暮れの堤防を彷徨うように歩くことしかできなかったのである。
「もはや……」
やるしかあるまい。
あの戦争を知る者として、被害が出ぬよう最善の努力をするしかない。
すでに米国はマンハッタン計画を完了しているはず。
原爆という最悪の脅威を如何に退けるか、制空権制海権を一瞬たりとも譲ることなく一気に攻め入るしかない。
藤林自身の心理的抵抗によって、日本の核兵器研究は未だ途上である。
このようなことになるのならば、もっと後押しして推進するべきであったと自責の念に包まれもしたが。
平成令和の人間として、どうしても拭い去ることができない抵抗が最後まであったのだ。
日本人の核兵器に対する特別なトラウマと視線。
おいそれと捨て去ることなどできなかった。
自らの不手際が危機的状況を招きつつあるということに、より一層焦燥が募る。
とくにぐずぐずしていたら、長距離弾道ミサイルによって一方的な攻撃を受ける時代まで間も無くであろう。
「開戦劈頭の圧倒と、早期講和……か」
結局それに立ち返るのであった。
フッと自嘲するように無気力に笑う。
経緯は違えども結局は対米戦に挑まんとし、国力と戦力の充実はまるで別次元と云えども手段もドクトリンもさほどの違いなどなく、ほぼ同じやり方を踏襲しようとしている。
自分は果たしてこの時代に来た意味などあったのだろうか。
そう果てしない空虚に包まれそうになったその時。
サクっと。
背中に何かがぶつかる感触と、妙に熱いような冷たいような違和感が起こった。




