第五章6
――アメリカ、ホワイトハウス
夏の夕陽が、オーバルオフィスに差し込んでいた。
しかし、その光は室内の重苦しい空気を晴らすには至らない。
大統領執務机の前に置かれたソファに腰を深くかけているのは、フランクリン・ルーズベルト。
向かいには、ヘンリー・スティムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官が厳しい表情で座っていた。
大統領の傍らには、彼の最も信頼する顧問の一人、バーナード・バルークが静かに控えている。
「もう一度聞くが」
ルーズベルトは内心の苛立ちを隠そうともせずに、口を開いた。
「陸、海共に軍部の意見としては、先の私の提案について賛同しかねるということでよろしいかね。……スティムソン長官?」
己の名前が出てきたことにぎくりと反応する様は、教師にさされた悪童そのものといった風情であった。
「け、決して反対というわけではありません。現状、徒に彼の国を刺激するようなことは国防方針の観点から、リスクがあると。それだけは否めないため慎重になるべきではと……」
かつてあれほど強気だった面影が近頃は微塵も感じられない陸軍トップの回答を、ふんっと鼻で嗤う。
そしてその隣に同じように恐懼しているのをありありと全身で表している海軍代表へと視線を向け。
「フランク。君も同じかね?」
「は……っ。かの保有戦力を鑑みて、決して楽な相手ではないことだけは確かです。もちろん、ご命令ならば否やはありません。……が、事実上こちらから宣戦布告のきっかけを与えようなことをするのは如何なものかとは思いますが」
「だから。あまりにも名目に乏しい理由で一方的に制裁行為をするのがよろしくないと。正義の国アメリカに相応しくないと、そういうことかな?」
ははっと乾いた笑いを浮かべる。
国家防衛を一手に担う最高責任者たる両名の、あまりにも日和見な態度に馬鹿馬鹿しくてやっていられないと全身で表明するかのようだった。
そして次の瞬間、アメリカ合衆国大統領は一変して本当の姿を見せる。
荒々しいまでの憤怒に彩られた、国家指導者としての厳然たる顔で威圧を溢れんばかりに発して云った。
「それだけの理由でっ! 『あの国』に今まで通りせっせと資源を輸出してやって国力の維持増大を手伝ってやれとそういうのかっ!!」
さわやかな夏晴れを映す窓が怒声で揺れる。
「そもそも中国大陸で終わりなき泥沼の戦争が起こるはずだと自信満々で述べていたのはどこのどいつだっ! 頼みの綱のチャイニーズどもは肝心なところでまったく役に立たずに、身内で争いを続けているだけではないかっ! 情報局の分析だとそれをいいことにアイツらは、喫緊の世界情勢をしり目にせっせと内政充実に勤しんでいるのだぞっ! それも長期的持久戦を可能とする総力戦のための国家改造を明確に目論んでいるのを隠そうともしとらんっ! それでいてドイツイタリアとの軍事同盟には参加せずに、局外中立を保ち、全方位外交を展開するという徹底ぷりだっ! そして……っ」
一気呵成に迸る激情の発奮。
「あのソ連と大規模の軍事衝突を起こして、陸戦で圧倒したらしいではないかっ!!」
軍事責任者たちの、応える言葉もなく俯く様子。
その事実がどれほどのことか、何を意味するのか雄弁に物語っていた。
「少なくとも数個師団、下手をしたら5個師団以上に上る軍勢が一度に満蒙の平野で会戦になった可能性が高いと。両者、まったく情報を出さないため詳細はつかめんが、少なくともそれだけの規模の軍事的衝突があって、ソ連が一方的に蹂躙されたことだけは確からしいな? ならばこれをどう考えればいいんだ? 頼むから教えてくれ、ヘンリー、フランク! つまりはこういうことか? 『我が国に次ぐ世界第二位の海軍戦力に、ソ連を圧倒する精強な陸上戦力をほぼ無傷で保持し続け、着々とさらなる国力充実を目論んでいる不気味な国家が唯一の弱点としている資源を笑顔で提供し続けろ』と? こういうことかっ!? 貴様らは本気でそう言っているんだなっ!?」
最後まで言い切ると、ようやく世界最大の民主国家代表の内に込められていたものがひとまずは出尽くしたらしい。
しんと静まり返った室内に、はぁはぁというルーズベルトの荒い呼吸の音だけがしばし流れる。
そして精も根も尽き果てたようにぐったりとソファに沈み込んでから、それまでとまるで別人のような静かな口調でささやくように言った。
「いいか、君たち……。そんな純軍事的脅威が太平洋という資源地域を挟んで対峙しているなど悪夢でしかないのだ。まだこれが、どこかの夢想家が夢見たように、中国大陸であくなき消耗をしてくれたり、ソ連との衝突で致命的な痛打を被って疲弊し、摩耗しているようなら話は別だが。そんなお粗末で脆弱な国家勢力ならば、安心して海の向こうにいてくれていいんだ。自由と正義の国アメリカはどうとでも対応できるだろう。あえて放置してみるみる追い詰められていくのを待ってもいいし、あるいはやむなくといった体で開戦し叩きのめせばよろしい。だがな? よりにもよってこの世界混沌の中、着々と国力充実を続け、我が国と並び立たんとしているようにしか見えん国がすぐ海の向こうで力を蓄えているのを自ら助け舟を出すように貿易をしているんだぞ? しかも明らかにこちらを仮想敵国としているとしか思えんにもかかわらず、いけしゃあしゃあと満州の共同開発の提案をしてくるという狡猾さまであるのだ。ある種の欺瞞外交に過ぎんはずだが、その影響は無視できん。国内の関係者の中には前向きに検討する人間が必ず出てくる。内部世論の分断、財界の調略としてこれほど有効な手段もあるまい。それほどの……」
ごくりとかすれた喉を潤す音が響いた。
「それほどの油断ならない国家勢力が対峙しているのだ。『対等の立場でテーブルにつく交渉相手』など、冗談ではない。常に我が国は上位者であり、交渉とはこちらから相手に妥協させる、妥協したように見せて確実に国益を得るというのが建国以来、アメリカの正しき在り方なのだ……」
最後の方はほとんど独り言のようであった。
そしてちらりと視線を横の側近に向ける。
「そうだな、バーナード?」
大統領の相談役として、今やアメリカにとって唯一にして最大の脅威である勢力への危険を説いてきたユダヤ人経済家は励ますようなほほえみを浮かべて応える。
「ええ、大統領閣下。まさしくおっしゃる通り、一点の瑕疵もございません。もはや彼の国の目的、戦略は明確。特に軍需資源の備蓄を続けさせるのはあまりに危険。座してまつ猶予はありますまい。……仮に。仮に名目の薄いかもしれない制裁措置に逆上したあちらが一方的に戦端を開いたとしても、継戦能力において優位を持つ我が方が今ならば有利。先のソ連との衝突での消費もあったであろう、今をおいて時期は他にありません」
「つまり遅くなればなるほど、自分の首を絞めることになるというだけの話だな。だがいいのかね? ヤツラは大量のユダヤ人の受け入れもしているらしいが」
お前と同じ民族の庇護者として振舞っている相手だぞと言外に匂わせる。
しかし、徹底した経済的リアリズムだけに生きる男は淡々としたものであった。
「中々小賢しいことをいたしますな。実際、国内の我が同胞にも影響が出ているのは事実ではあります。……だからこそ捨て置けないのです。それもまた彼の国の脅威の証明に他なりますまい。大統領の御判断を……わたくしは全面的に支持いたします」
「ふむ、やはりさすがだな。どこぞの日和見主義者どもと違って、できたものだ」
ようやく、満足そうな顔いろを浮かべたルーズベルト。
己の立脚するところを改めて確認し、未だ躊躇の色が残る側近に向けてはっぱをかけるように宣言した。
「では、日本への禁油措置については早々にまとめるから、陸海ともに軍部はそのつもりでいたまえ」




