第五章5
「本当によろしいのですか?」
鮎川儀助は満州重工業株式会社の執務室で己にかけられた言葉に、ちらりと視線を向ける。
そして巨大な謀略へ加担するかのような不安を隠そうともしない部下に対して、淡々と応えた。
「かまわん。予定通り、調査と試掘準備に入るのだ」
「ご指示通り、すぐにでも開始できる体制は済んでおりますが……」
「くどい。いいからさっさと始めろ」
「……」
有能な部下である。
彼が抱く懸念と躊躇は、およそ利益を追求する企業組織の人間として当然であり、まっとうなものなのは間違いない。
何せ自分が指示命令しているのは、明確に関東軍、いや帝国陸軍……ひいては国家そのものの方針に反する、一種の反逆行為に他ならないのだから。
大きすぎるリスクはどれだけリターンがあろうとも、躊躇し、慎重になるのが商売人に必須の感性である。
だが。
「できるかどうかもわからんアメリカメジャーの参加を座して待ち続けるなど不毛だ。そもそもまったく進展が無いのだから。……まあ、当然といえば当然だろうがな。あの陸次官閣下は軍部においては相当なきれ者であるが、やはり軍人。外交と商慣習に関する感覚には限界があるらしい」
鮎川は満州へのアメリカ資本の受け入れによる利益を見通し、そのメリットを説いてきた男である。
かの巨大な経済圏を活用しないなどと、これほど不合理なことはあるまいというのが彼の主張であり、商売人としての基本姿勢であった。
だからこそ関東軍を口説いてユダヤ人の受け入れと活用を目論んでいたのだ。
あの民族の技術や経済的知見、人脈が満州の国土開発と経済振興に必ず寄与するものと信じて。
かつアメリカのユダヤ系資本に対する融和効果を見込んで。
そして今や数万に上らんとする一大ユダヤ人コミュニティがこの地に形成され、はっきりと成果が出つつある。
主に己が差配する満重において雇用した欧州の先進的技能者、知識人による技術革新と経済の勃興はすでに明らか。
国家政策として推進されていた、合成ゴムとアルミ抽出、高炉と水力発電の技術開発などはその代表であろう。
特に陸軍肝いりで多大な予算的優遇が採られていたこともあり、未だ実用化には至らぬものの、日進月歩で技術的課題を克服しつつあった。
さらには内地からも企業技術者や学生を中心に流入が続き、人材交流も活発である。
そう遠くないうちに、この満州はアジアにおける一大科学技術の実験場、経済振興地としての立場を確立するのは間違いあるまい。
いつしか本国を抜いてしまう日がくることすらあるかもしれない。
……尤もいいことばかりでもなく、独自の文化風習を持ちかつ一切妥協せずに自分たちのやり方を変えようとはしないユダヤ人、さらには他大陸系民族同士の反発、軋轢も表面化しつつあるのだが。
だが未だそれは致命的なモノではなく、将来はともかく現時点では有り余るメリットによってほとんど気にするほどではない。
よって、あの永田鉄山が主体となったらしい、日本の一大方針転換は彼にとってまさに僥倖と言うべきものであった。
己が画策していたものがそのまま政府によって公認され、一大国家事業化され、こうしてほぼ思惑通りの結果が実現しつつあるのだから。
そこまではまさに国と己の目的が完全に合致し、一蓮托生の関係になれたといっていい。
しかしそれもユダヤ人受け入れと、一部の海外大手企業の資本参加という範囲のところまでである。
あの永田が最重要目的としているらしい、アメリカメジャーの受け入れはまず無理だろうとは思っていた。
「あのアメリカが日本の現状を鑑みて、満州への石油メジャーの参加を許すわけなどないだろうに。どれだけ自国企業に経済的メリットがあろうと、それ以上の防衛上の懸念を抱えることになるのだからな。今次の世界情勢の中でも、有数の軍事力を全く無傷で保持し続け、かつ全方位外交で国力を持続的に維持することに腐心している有力国家。さらにはつい先ごろのソ連との一件で実力も証明されてしまったと。これをアメリカがどう判断するかなど、わかりそうなものだがな……」
鮎川は経済人としての嗅覚で確信していた。
まずあの国は己と並び立ちうる勢力の存在を決して許すまい。
ましてや満州を巡って、アメリカ自ら対立関係を助長している。
今更日本が恭順的媚態を示しても、おいそれとは信用するまい。
むしろ、着々と蓄えている国家の潜在力のイメージに、ますます脅威に感じているはず。
だから唯一の日本の弱点とも言うべき資源問題に解決の道筋をつける、石油メジャーによる満州開発参加など、どだい許すわけがないのだ。
……ならば。
「杓子定規にお上の言うことを丁稚小僧の如く聞くだけでは経営者としてあまりにも不甲斐なかろう。目の前に莫大な財宝が埋没してる可能性があるのに、何もしないで手をこまねいているなど、馬鹿馬鹿しい。……どうせこちらで何をしようとあちらにはわかるまいしな。それに一応、他の資源調査も同時にやる体裁もとるわけだからどうとでも言い訳はできる。いざ目的のものが出たとしても、あくまでも『偶発的に発見してしまった』だけなのだから」
決して嘘ではない。
鉱物を始めとする、貴重資源の調査も同時にやることは事実である。
ただ少々、その力の比重が相当偏っているというだけで。
「なにより……日本にとって生命線といえる石油資源が自前で確保できたとなれば、いくら指示違反でも許さざるをえまい。政府も軍部も事後承認する以外になかろう」
「な、なるほど……」
そこまで言ってみせて、ようやく腹心の顔に血の気が戻ってきたようだった。
「わかったなら、とっととそのユダヤ人地理学者が示唆した場所の調査に入るんだ。確か……ハルピンとチチハルの境界あたり、北東部の碌に道もない辺鄙なところであったか」
ソ連の国境にも近い場所。
かつてはあの国の巨大な軍事力が脅威で、とても大々的な開発など考えられなかっただろう。
しかしその不安も今や完全に払しょくされた。
「さようです。農業をするにも難しいらしく、永らく不毛の場所として放置されています。地元民らしきものもないため明確な地名もなさそうですな。行政区分でいうと……」
そして腹心はその地を口にした。
「かつての黒竜江省、現在は浜江省となっている――安達です」




