第五章4
「閣下……」
バタバタと扉の向こうまで鳴り響いていた激しい靴音に反して、入室してきた秘書官の様子は酷く静かで抑制されたものだった。
自然、齎されたものの内容を察し、薄くざらついた紙片を受け取る手が震えるのを抑えることができなかった。
そして。
「……っ!!」
藤林は認識した内容を理解するまでに、数拍の時間を必要とした。
勝った……?
それも大挙して突貫を試みてきたソ連軍の勢いを吸収する形で完璧に防いだうえ、逆襲による包囲殲滅?
敵司令部まで落として、司令官を含む捕虜多数?
緒戦の暫時後退防衛局面に於いて損害あるも、ごく軽微?
「ま、まさか……っ」
とても信じられない。
自分が知る史実と比べたら多少マシになったとはいえ、彼我の軍事力を考えればまずありえないことであった。
そもそも兵器兵装の水準がまるで異なり、せめて少しでも追いつこうと機械化を可能な限り推進したが、それでも十分だとは言えない状況だったはず。
だからこそ、知る限りの知識情報を総動員した防衛戦をあの石原という鬼才の持ち主に託し、ようやく互角の可能性が出てきたものと、そう考えていたのだ。
それが。
まさかあのソ連を軍事的に圧倒し、奇跡としか思えない戦勝をしたと?
まるで現実感の伴わない感覚に包まれていた。
白昼夢の只中にあるかのように、茫然としたまま、ぼんやりとただ電報の文字列を瞳に映すだけの時間がどれだけ流れたのか。
「おめでとう……、おめでとうございます!」
感極まったような秘書官の声に、ようやく我を取り戻した。
そして未だ実感はないものの、自分が最も恐れた事態だけは逃れられたことを理解し始める。
(これは……、どう評価するべきかはわからないが。少なくとも泥沼の全面戦争には至らずに済んだのは間違いない……っ)
何はともあれ、日本軍の損失を最小に抑えられたのは事実。
つまりは藤林が第一と考えていた目的は完璧に達せられたのだ。
……ソ連軍に対する圧勝という、まるで想定外のおまけをつけて。
「石原……っ」
やってくれたかと。
この時代に来てから、因縁浅からぬ仲になった男を想う。
今、あの男は大陸の茫漠たる平野で何を見て、何を想っているのか。
日本が至るはずだった悲惨な結末を避けるために乗り越えるべき試練の、最も難関の一つであったソ連との軍事衝突。
それを己の想像をはるかに超える形で、見事にやりこなし、結果をもたらしてくれたのだ。
かつて自分が歴史的人物として認知していた以上の、遥かな傑物であったと改めて思い知った。
同時に、早くあの決して親しみやすいとは言い難い人格を持つ皮肉屋の顔を前に、喜びを分かち合いたいという衝動に包まれた。
果たしてこの一方的勝利というのが、どう影響し、何をもたらすのかはわからない。
大きすぎる成果に対しての不安というものが確かにある。
だがしばしの間だけは、ただ日本の将兵が無事であったことを悦び、齎された栄光に浸ったとしても罰はあたるまい。
と、ようやく事態を飲み込んで、純粋な安堵と喜悦に包まれつつあったその時。
いつになくご満悦の上官の気分に水を差すことを申し訳ないような、遠慮がちの秘書官の声と共に差し出されたもう一つの紙片。
「閣下、こちらもご確認をお願いいたします……」
なんだ、これ以上一体なんの報告があるのだ、何にしても悪いことなど今はあるまいと。
すっかり心の備えもせずに受け取り、揚々と開いて視線を向けたそこに書かれていた内容に、藤林の心はまた一気に真逆へと振り切られることになった。
――関東軍参謀長、石原莞爾少将、戦地ニテ死去ス




