第四章9
「石原か……」
夜の風情を堪能するように、照明を最低限に控えた薄闇の中。
こちらに背を向けて窓辺に立った御姿で、呟かれた。
威圧ではなく、静謐な権威が部屋を支配していた。
「朕は……、あの男だけは理解しかねている」
語調はあくまで柔らかい。
だが、そこに込められた理性と警戒心は明確だった。
関東軍を使った一気呵成の軍事行動。
事後承認という統帥権の本質を問う、確実に重大な侵犯行為。
そして満州国建国。
陛下の憂慮は当然であった。
石原の唯一にして最大の罪。
その後の歴史的評価を二分する原因。
日本陸軍の方向性が決まり加速していく、その端緒にして主因。
俯瞰すれば、その後の日本の運命を決定づけた一つなのは間違いなかった。
石原莞爾もまた、昭和の歴史の昏い影を背負う人間であるのは疑うべくもない。
だが、今やただその軍才こそがこの国を救いうる。
あの致命的な越権行為を結果的に挽回しうる機会ともいえるのだ。
だから。
「関東軍はあくまで自衛的措置の範囲を越えぬよう、厳命いたしております。決して。決して先のような領土侵略に繋がることはないよう、臣命を賭して誓う所存です」
「ソ連国との緊張が限界まで高まっておるのは外務や内務からも聞いておる。先の御前会議においても、陸軍だけでなく、大方の者は今以上の軍事衝突を覚悟しつつあるのもわかった。有事の際の防衛、大規模の軍事的対応も致し方あるまい。だが……」
深い。
とても深い悩みがそこにはおわされた。
「『あの男』に任せていいのかという想いが未だに朕の中にはあるのだ」
関東軍参謀長、石原莞爾。
その名前の響きに、この方ほど禍々しい不吉な予感と抵抗を持たれている存在は他にあるまい。
悲しいまでの煩悶と孤独が痛いほどに伝わってきた。
「あれの軍才は疑うべくもありません。恐らく今の軍部で唯一といっていいもの」
「それほどか」
「劇物といっていいほどでしょう。しかしながら、ソ連の圧倒的軍事力に抗するにはそれくらいでないと致し方ないのです」
「……」
少しだけその背中に、月明かりに暗転している御影に揺らぎが生まれる気配がした。
やがて。
「あいわかった。だが決してあの男を信じたわけではない……永田、そなたを信じるとしよう。それでは満州における有事防衛について一切の帥を軍部に与えんとする」
「有難う……有難うございますっ」
深々と頭を下げた。
どれだけの葛藤とお悩みの深さであったろうことか。
下された御英断の重さに、このご期待を違えることだけはできないと、藤林は心に誓ったのであった。




