第四章8
森閑とした木々や花畑の間を縫うように続く石畳を、軍靴が一歩一歩静かに叩いた。
秋の夜を往く冴えた風、まるで神域へと至るまでにあらゆる不浄を祓うかのようであった。
皇居、御文庫と呼び習わせられている天皇の私的書斎の前庭。
ところどころに灯る明かりが、松の形を闇に浮かぶ影のように描いていた。
藤林は左手の腕時計を確かめる。
指定時刻より五分前。
まず理想的な到着であろう。
そしてあたかも予期していたかの如く、御文庫脇の控え室、その木扉が静かに開き中から人影が現れた。
黒いジャケットに白いシャツとベスト、トラウザーズと完璧な礼服を着こなした痩身の男――内大臣、木戸幸一。
藤林が知る本来の歴史では未だ文部大臣だったはずの彼は、何らの淀みも揺らぎもない平坦な眼差しで口を開く。
「……お待ちしておりました、永田中将。御機嫌麗しゅうございますな」
淡々と穏やかな口調に、柔らかな微笑。
だがその目の奥にあるのは、ただの人好きな好意ではなかった。
己の責務を自覚した、人見役として観察を怠らない者の醒めて乾いた視線だった。
藤林は一礼して応える。
「畏れ入ります。陛下はもう?」
「お待ちでらっしゃいます。こうしてお取次ぎするのも何度目でしょうか、よほど中将とのお時間に心慰められておられるご様子。ただ……」
木戸の瞳に宿る、刹那の光。
「本日は剣呑なお話のようですな」
「……」
「僭越ながら、どうぞ国体の護持だけは損なわぬよう。臣民たることを第一にお考えくださいますよう、よくよくお願いいたします」
(そんなことは……)
わかっている。
いや、もしかしたら目の前の男よりも、よほど己の方が切実に想っているかもしれない。
木戸という人間が、あの歴史において一体どのような役回りをして、どう責任を取ったのか。
一瞬だけ、自分を油断なく見つめる貌に重なるように、意識が遊離する。
東條の起用。
日米開戦時の立ち居振る舞い。
そして敗戦後の運命。
確かにこの男の忠誠は本物だったのだろう。
そこに疑いはない。
あの東條と共に、彼らに共通する己を犠牲にしてでも、いやあらゆることに優先して皇室の無事を一に願っていた赤心は疑うべくもない。
だが、それもどんな免罪にもなるまい。
たとえどのように言いつくろったとしてもあの結末を迎えてしまったというのは事実。
その限りにおいて彼らに「戦争責任」というものは確かにあるのだろう。
……アメリカやソ連はじめ連合国やその他当事国に対してではなく。
皇室と日本国民に対して。
たとえ誰がやったとしても同じような結末になったかもしれない。
だが、その時点で当事者になってしまった、政治指導者に名を連ねるとはそういうことなのだ。
敗戦国家にした責任というものが確かにある。
だから。
せめてこの男でさえもその人間世界の不幸から救えるならば救ってみたいと心より願うような気持ちになった。
「木戸殿の御忠言、誠に痛み入ります。陸軍を代表して、皇室への忠誠と護持、この心に微塵の曇りもございません。陛下の御安泰とこの国の永続だけを第一に考えて行動する所存にございます」
じっと向けられる視線を真っ向から受け止めつつ、言い放った。
どこまでこちらの想いが伝わったのか。
数秒ほど無言の時間をおいてから、「こちらへ」と先へ進むよう促してきた。




