第四章7
モスクワ、クレムリン第一会議室。
ゲオルギー・ジューコフは分厚いドアの向こうから響く怒声を聞きながら、ただ直立不動のまま待っていた。
国家の指導者が複数の部下を集めて采配する際に利用している部屋の前に立たされて、すでに二十数分が経過している。
先ほどから断続的に、怒鳴り声とも、呻き声ともつかぬ低く重い咆哮が廊下にまで漏れていた。
恐らくは国防人民委員のヴォロシーロフか、または参謀本部の誰かが叱責されているのだろう。
怒声に込められた苛立ちの熱量は、高密度の空気が震える数多の波としてジューコフの胸を圧迫していた。
やがてゆっくりと開いた扉。
果たしていく先は天国か地獄か。
「入れ」
内務人民委員ベリヤが、陰鬱な笑みを浮かべて短く言う言葉でどちらであるのかは明らかであった。
ジューコフは無言で一歩、また一歩と部屋に足を踏み入れた。
重々しい空気が肌にまとわりつく。
円形の卓の両脇に重鎮を従え、中央の椅子に座る絶対的支配者の姿を確認し、否応なく全身に緊張が走る。
だが僅かでも相手に違和感を持たせてはならない。
何が、どれが、この猜疑心の塊である男の癪に障るかわからないのだ。
徹底的に感情を排して、無機質に対応するよう己を律する心づもりを固めた。
パイプを指先で弄びながら、じっとこちらを見据える黒い瞳。
そこに湛えた剣呑な光がすべてを物語っていた。
「……ジューコフ同志。今度の日本との衝突、知っておるな?」
禍々しいまでの威圧と冷酷。
その声はどこまでも低く、そして鋭利。
「はっ。張鼓峰での武力衝突に関する報告を、逐次受け取っております」
ジューコフの声は機械のように正確だった。
感情を挟めば終わりだ。
ここでは忠誠と能力の両方を、常に証明し続けなければならない。
「どういうわけか……我が軍がやられておるらしいな。虎の子の戦車隊が立ち往生し、砲兵は壊滅寸前。航空隊は制空権すら奪われていると来た。まるで奴らがこちらの手の内をすべて読んでいるかのようだ」
独裁者の語尾には抑えきれぬ果てしない激情ががこもっていた。
無尽蔵の感情のエネルギーが、その奔出先を見出そうとのたうち回っているのが明らかであった。
「貴様の報告だと現時点では当方に軍事的優位があったはずだが? 日本軍の機械化の進展は、我が国に比べ二世代ほど劣っているため仮に軍事衝突が起ころうと劣勢になる可能性は低いと」
ごくりと喉を鳴らすのが伝わらぬことを祈る。
回答を間違えれば、自分は終わりだ。
「はっ、伝え聞く彼の国の実情、満州に展開する兵器兵装の実態から、僭越ながら検討中の機械化戦略を適応した場合、斯くなる結果になるものと愚考した次第であります」
「ならば今回の件、どう考えればいいと?」
「恐れながら、非計画的な戦力の逐次投入、明確な戦術思想に基づいた機械化部隊の有効活用がなされなかったことが原因かと思われます」
「……なるほど、つまり指揮官が無能であったということか」
「……」
さすがに言いよどむ。
だが今回の担当たる責任者の運命はもはや決定しているだろう。
「いいかね、我が国はこれから西方に向けて本格的な行動を起こすにあたり、確実な一撃を東方安定のために加える必要がある。元々、対日一撃論はキミの主張でもあったはずだが。今後あのエゴイズムの権化たる邪悪なファシストを相手どるにあたり、日本程度に苦戦しているわけにはいかんのだ」
語られる独裁者の世界展望。
恐らくはドイツに君臨しているもう一人もまた、同様の世界観を共有しているに違いない。
そして一切の反駁など許されない鋼鉄の響きをもって、命令は下された。
「わかっているな、同志ジューコフ。成果を出せ……、私が言いたいのはただそれだけだ」




