第四章6
関東軍司令部には、高揚と疲労が混じり合った独特の空気が満ちていた。
服部卓四郎は最終確認を終えた報告書を手に、参謀長の執務室の扉を静かに開けた。
部屋の主は書類の山に囲まれ、心無し青白い不健康そうな顔いろに眼光だけがどこまでも鋭い。
「敵軍の完全な撤退を確認。我が方の損害は極めて軽微です」
極力感情を込めぬように努力しながらも、排しきれない響きがあることに自責の念に駆られる。
軍事情報のやり取りとは本来そうあるべきだという理想があり、常々実現せんと心がけていたつもりであったのだ。
だが今回の内容、戦果を考えれば我ながら無理も無いだろうとも思う。
完全なる防衛戦。
鮮やかすぎるほどの采配。
およそ軍事史に残るといっても過言ではない、教練書に事例として挙げてもおかしくないような軍事的成功を目の当りにさせられたのだから。
だがそれを受ける男は何らの感慨もなさそうな様子で、淡々とただ「そうか」とだけ口にする。
あたかもさほどの価値もないような、意外性など一切ない当たり前のことを聞かされたような態度だけ。
石原莞爾という、自分の上官にあたる存在。
その圧倒的傑物性に対して畏敬の念を押さえることができない。
そもそも石原の一連の事変に対する対応は、徹底していたものだった。
脳裏に蘇える、ここ数ヶ月にわたる緊迫の日々。
国境での小競り合いが散発していた当初、自分を含めて参謀部の多くの者は単なる偶発的な衝突と見ていたのだ。
しかしこの石原参謀長は直ちに情報収集の強化を命じ、航空偵察、無線傍受、そして密かに潜入させた情報員からの報告を昼夜問わず分析させた。
のみならず、現地拠点に対して『前々から』重点的な防衛体制の構築を命じていたらしいのだ。
さらには越境侵攻に備えた軍事演習、指示されたその内容もまるでこの事態を完全に想定していたかのようなものであった。
結果、敵第一波に対する集中的応戦による撃退、敢行された夜戦急襲の成功、そして速やかな兵員回収による損耗の抑止。
その後も増援される敵勢力を都度、いなすように撃退し、逆襲することを繰り返した。
そうして敵軍の猛攻をすべて抑えた末に停戦交渉が始まり、事態が収拾されつつあるこの状況。
純軍事的には完全なる勝利と言っていい成果としか理解しようがない。
(これほどに……人間とは至れるものなのか?)
いくら才能あふれた優秀な軍人であろうとも、埒外の異常である。
これほど最適な対応を余すことなく、網羅してできうるものであろうか。
まるで『何が起こるか知っていた』かのように。
同僚の辻政信などはその神がかったとしか言いようがない、石原の才覚にすっかり心酔している。
「導師」と呼んで私淑する様子は、新興宗教の教祖に向ける信者の態度そのものである。
だがそれも致し方あるまいと、納得する想いが己の中にも確かに存在した。
それだけこの石原という男が突出しすぎているのは間違いないのだ。
「ご指示通り、追撃戦は控えさせましたが、よろしかったのでしょうか。ソ連を徹底的に追い詰める機会だったと思われますが」
「不要。いたずらに深追いしても余計な損耗が出るだけで得るものは大してなかろう。それに……」
にべもない口調であった。
そして続く言葉に、服部はやはりこの男は何か啓示めいたものを受け取っているのかもしれないと、神秘主義を否定する己の信条が揺らぎそうになった。
「これは『本番』に備えた前哨戦でしかないらしいからな」
とてもつまらなくてくだらない、趣味の悪い低俗な冗談に心底うんざりしたような風情と態度であった。




