第四章4
「しかし海軍を預かる者としてはいささか疑問もありまして。南方資源を求めるに、英米の敵対を想定するのは当然として、なぜ先に米国と開戦、勝利停戦する必要があるのかというのはどうも」
「ふむ、いい機会だ。永田さんからご教授いただいてもいいですか? 私もまあ、その辺はどこまで徹底しなくてはならんのかというのは決めかねておりまして」
南方進出、ひいては必然的に想定せざるを得ない対米戦争。
なるほど、この時点ではやはり順番として先に資源地域奪取を目論むのが妥当だと思うのは当然かもしれなかった。
「開戦劈頭で決定的勝利が得られなくとも、資源奪取をしてから相手の出方を見る、よしんばあちらが強硬にでなければ上々、それから体制を整えても問題ないはずだと、そういうことかね?」
「さようです。もちろんどれだけ資源確保と備蓄化が叶うか、占領政策がうまくいくかというのは不透明なので、希望的観測ではありますが。それでも初めから全戦力をぶつけた決戦をするよりは段階的に状況を検討し、手段を選べるというメリットがあるのは事実でしょう」
この時代の海軍、いやその他軍人や政治家を問わず、おおむね同様の認識であったのだろう。
確かに、常識的に考えればそれもまた一つのやり方ではあった。
いきなり生き死にをかけた決戦という致命的な危険性を冒すなどと、仮に一部の合理性があったとしても、とても採用する勇気はないのも当然であろう。
だが。
「……そもそも発想が逆なのだ」
「逆……とは?」
理解しがたいような井上の顔。
「南方への進出は一見仰るように、状況確認の猶予と選択肢の広がりをもたらすように見えるかもしれない。……が。実際には全く異なり、むしろ自縄自縛に陥って戦略の幅を限定されていくという、言うなれば籠城戦に他ならないのだ」
そして藤林は語り始める。
果たして南方進出とは一体何なのか、何を意味することだったのかと。
日中戦争を経て、蘭印進出し、結果齎された太平洋戦争の流れを知悉する平成令和の日本人としての結論を。
仮に南方を攻略占領する必要がどれだけあろうとも、先に行うべきはアメリカへの先制攻撃と無力化に他ならない。
そもそも発想がまるで間違っていたのだ。
南方侵略を開始して、長大な防衛線を抱え込むことになり、身動きができなくなってアメリカと対峙するなど最も非効率である。
戦線の拡大により兵力のいたずらな分散を招き、主戦場を選ぶ自由も狭まるだろう
それならば占領政策の重荷を抱えず、戦力集中が容易で、補給の心配も相対的に低い時点で全力をかけて雌雄を決することこそが正しいのだ。
どうしても、死命をかけて南方を攻略せざるをえないならば、もはや国家の存亡をかけて決戦をかける。
それに勝てば、もう後は誰も邪魔するものなどなく、覇権国家となった日本は太平洋すべてを揚々と手中に収めることができるだろう。
その後の占領政策などはそれからゆっくりと考えればよろしい。
だからこそ、当時の山本五十六は真珠湾攻撃による先制圧倒と早期講和を目標としたのだ。
その結論は全く持って正しかったとしか言いようがない。
そして真珠湾、ミッドウェーと続く流れでアメリカに徹底的な打撃を与えるまでには至らず、早期講和の目論見が外れた時点で何もかもがご破算になったことを悟ったのだろう。
今目の前で真剣なまなざしを向ける男、その死にざまを想う。
つまりは、もしやるとしたらより高度化された戦力と持久体制の下、『完全な真珠湾攻撃とミッドウェー海戦』をやるしかないのである。
日中戦争で浪費されるはずだった陸海の兵器兵員をすべて投入し。
南方などに目を向けず、ひたすらアメリカ本土へ向けて一心不乱に進むしかないのだ。
そしてまず目指すは米国本土への足掛かりとなりうる場所への上陸占拠と拠点化、理想はハワイであろう。
そこまできたら、停戦交渉と共に、本土防衛力への打撃も検討することすら可能になるかもしれない。
それが日本にとっての南方と対米戦略の最適解。
あの大戦の経緯と結果を知り尽くしている藤林の結論であった。
「……」
「むう……」
全てを語り終えた後、山本と井上はしばらくそうして沈思黙考の風情であった。
藤林はその、新たな視点と解釈に揺れる、二人の帝国軍人を静かに見守り続ける。
やがて、先に応えたのは井上の方であった。
卓上へと注がれていた視線がゆっくりとあがり、こちらに向けられる。
「……まだ混乱しております。が。どうも私の頭はその内容を否定することもできないらしい。時間を取って検討したいというのが本音です」
「そうかね。まあ、海戦の素人である陸軍軍人の一私見程度に思ってくれればいい」
「いや、しかし……。なんとまあ……」
処しきれないといった風に、額に当てた手で己を撫でる。
そして重苦しく沈黙していた山本が、久々に言葉を発した。
「表ざたにするには刺激的過ぎる内容でしたな」
「ええ、お二人だからこそ開陳しました。どうか汲んでいただきたい」
「もちろん。しかし、永田さんにはいつも度肝を抜かれますよ。いささか一方的にやられてばかりのようで不本意ですが」
ようやく冗談めかした調子が戻ってきた山本。
だがその目は切実かつ真剣なものだった。
「それくらいの覚悟を持たなくては、決して南方に手を出すべからずということですな」
「おっしゃる通りです。今のこの国の取るべき選択肢はすでに相当狭められていることを、軍事指導者たる我々はもっと自覚するにこしたことはないでしょう」
「ふう、いや、これからまた見る目がいろいろ変わりそうです」
石原同様、山本五十六という突出した才能に、己が持つ知見を可能な限り渡しておく。
それもまた藤林の目的の一つであった。
この時代、海軍を代表する才人たる彼ならば、判断する材料さえあれば決して不都合なことにはなるまいと確信した上でのこと。
一連の南方対米戦略の話は偶発的な流れであったが、結果的には有意義な時間になったことは僥倖であった。
そして。
「では。喫緊としてはやはり南方ではなく。……北方ということですな」
当然のように、山本の発言は核心をついていた。
そしてその言葉が含む重みに、今度唸ることになったのは藤林の方であった。




