第一章2
東條英機――。
昭和史において、この名を知らぬ者はいない。
太平洋戦争を指導し、戦後に絞首刑となった男。
戦後日本においては「A級戦犯」の象徴であり、その思想と行動は、国家を破滅へ導いた張本人とされる。
だが、目の前に立つ東條は、たしかまだ久留米の旅団長。
永田の後を継いで、陸軍の行政トップになる遥か前。
いや、正確には永田の死こそがこの男を日本の舵取りへと押し上げたのだ。
今なら、まだ――影響を及ぼせる。
「話を聞こう。座りたまえ」
藤林は、努めて落ち着いた声で椅子をすすめた。
東條は几帳面な動きで腰を下ろすと、背筋をピンと張ったまま口を開いた。
「閣下を狙った不届きもの、相沢のことです。まずはご無事でなにより、軍神の加護が疑うべくもありませぬな」
「……」
含みは感じさせない。
恐らく本気でこの男は感服しているらしい。
実直な堅物。
それゆえにこそ融通が利かない、真面目な実務屋。
人物としての器も相応。
良くも悪くも凡庸な人材であろう。
ただ士官として目立った瑕疵はなく自負心は相応にあるから、組織内の立ち位置や外聞には敏感。
およそ大局的な視点とは無縁の、その興味や欲求はあくまで内向きの範囲に留まる典型的な人間。
下位や中位の能吏としては優秀だが、決して組織のトップに就くには足りない。
そうなった場合の結末を藤林は嫌という程しっている。
同僚の石原莞爾に『上等兵』と痛罵された逸話が脳裏に浮かんだ。
……そういえば彼もここにいるはずだった。
これから自分がやることを考えると、彼こそがそのキーマンになるのは間違いない。
あの昭和軍事史を彩る傑物に間も無く直接会うことになるとは。
ただ今は目の前の東條である。
「運が良かっただけだ。幸い、こうして私はどうともない。心配をかけたな」
自分の中にある、永田としての記憶が目の前の存在への認識を促す。
「ご指示通り拘束しておりますが。憲兵への引き渡しは今少しお待ちいただくべきではありますまいか? このようなことが起こった以上、皇道派の粛清は必至。相沢単独のこととして終えるのではなく、早急に背後関係を把握し、主な関係者を芋づる式にして一気呵成に撃滅する機会かと」
「……」
なるほど。
当時の軍内の派閥争いの実態、その雰囲気がわかったような気がした。
ただ今は全くこの非現実的な状況に対応できているわけではない。
まだ混乱の只中にある。
下手なことはできないと思った。
能動的に動くのはもっとこの世界に慣れてからであろう。
とりあえず常と変わらぬ対応、軍内での不祥事が起こった際の始末と同じ範囲にとどめておくべきだと直感する。
「君の意見には一理ある。だが、下手なことをすると只でさえ煙たく思われている反対派をさらに刺激することにもなろう。ただこのまま捨て置くことはもちろんできん。統制を回復するには“力”が必要だ。まずは……、情報と指揮系統の一元化だな。内部抗争を捨て置き、参謀本部と現地軍の独走を許していては、国家の未来はない」
藤林の言葉に、東條は目を細めた。
「閣下……そのお考えは、我が意を得たりでございます」
「今後、君には軍務局内の情報部門強化に協力してもらう。人事のことは任せたまえ」
「はっ! 誠に光栄であります」
藤林は、心中で息をついた。
ここからが始まりだ。
こうしてまずは地歩固めをしていくのが間違いあるまい。
手元の人材を掌握し、この時代と立場をわがものにして有効に力を行使していく。
東條も使えるうちにはうまく使い、危険になり次第排除できれば。
彼の目には、遠い未来が浮かんでいた。
真珠湾。硫黄島。広島。長崎。
すべてを回避するには、今この瞬間の決断と人事がカギとなる。
「それから、東條。近く、皇道派の影響を受ける人事にいくつか手を入れる必要がある。君にも意見を聞かせてもらおう」
「……はっ!」
藤林はその目を細め、次なる一手を考え始めた。
今度は二・二六事件の阻止。
日本の運命を大きく狂わせた一つの要因。
歴史の分岐点。
そのためにも、この東条以外の統制派の人材を一通り確認するべきであろう。
先の石原始め、その後の歴史に大きく関わった有名人ばかりなのだから。
永田鉄山が率いた秀才たち、単純な能力で言えば突出した豊富な人材の数々。
己が目で確かめて、扱うことができるのか、今後のすべてはそれにかかっているといっても過言ではなかった。