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第三章8


 石原が大陸行きの諸々の手続きのため、陸軍省の各関係部局をようやく巡り終え、さあいざ帰らんと脚を進めていた時だった。

 東条英機とばったり出くわしたのは。


 通路の途中、ちょうど踊り場のようになっているところで視線が合う。

 互いにすぐには反応しなかった。

 だが、数拍置いてから労うような風情で言葉を発したのは東條であった。


「石原君、久しいな。また向こうに行くとか」


「どうも。自分はあそこと関係なくはいられない宿命のようで。まあ、己がやったことの後始末だと思っておりますよ」


「そうか、立派な心掛けだ。君の軍才は間違いないのだから、軍部も放っておくわけにもいくまいな」


 東条の言葉には何らの裏も含みもない、純粋な称賛と敬意があった。

 例え年下が相手でも、優れたものは素直に認めて尊重できる。

 そんな素朴な人の好さが確かに目の前の男にあるというのは石原の変わらぬ認識である。


 一夕会という派閥の中で、さほど目立つわけでもなく、あの永田について回っていた程度の印象しかない。

 ただ、事務処理屋としては優秀らしいというのは人づてに聞いていた。

 だから石原にとって数年次の先達にあたる東條という男は、特に毒にも薬にもならない、永田鉄山という領袖の頭に付き従う金魚のフンくらいの存在であった。


 それでもこの時勢で掃いて捨てるほどいる大言壮語ばかり吐き、天下国家を身の程知らずに語りたがる国士烈士気取りの有象無象よりはよほどマシだとは思っている。

 ああいう陸軍にとって、いや、国家にとって害悪にしかなりえないヤツバラに比べたら、どちらがいいかなど考えるまでもない。

 例えどれだけ突出した軍事的才能も視野も先見性も取り立てて持っていないとしても、ただ人がよくて泥臭いだけの人間の方がいいに決まっている。


 よくも悪くも普通の凡人。


 東條という男は正しく、石原にとっていてもいなくてもいい、好きにも嫌いにもならないものだった。

 利害関係も対立構造ももちえないから、これ以上安心安全なものもない。


 なにより自分という、少なからず目上の人間には煙たがられることを自覚している人間に対して、こうも『できた態度』をとってくれるのだから、邪険にする理由はなにもなかった。

 自然、他の同輩先達に比べれば相対的に対応態度も柔らかなものになる。


「東條さんも新しい情報部門を任されたらしいですな。局長ならばご出世でしょう」


「なあに、裏方の雑用の元締めみたいなものだ。ただ永田閣下の信頼には応えねばならぬがね」


「ご自分の為すべきことに殉じる覚悟は御立派ですよ。若いヤツラに見習わせたいモンです」


「はは、キミにそんなことを言われるといささかこそばゆいな。そちらこそ、この度の昇進と辞令で責任重大だろうに。とうとう追いつかれてしまったか」


「恐縮です、自分の責務だと思ってせいぜいやってみせますよ」


「ああ、その意気だ。石原君なら間違いあるまい」


 その言葉を最後に、互いに礼を向けてそれぞれの向かう方向へと別れていった。

 陸軍省建屋の出入り口へと歩きながら、ほんの僅かにこれまでのやり取りを反芻する。


 石原にとって何の意味も価値もない、社交辞令。

 ただあえて険悪にする必要もないから機械的に対応したという程度の出来事。


 東條英機という存在に対する認識は相変わらずで、恐らく今後も変わることはあるまい。

 石原はそう確信しながら外へ出た。

 冬の澄んだ空気に冴えた陽光。


 すると、その刹那。

 突如、何の脈絡もなく脳裏に、白昼夢の幻めいた仮定的想像がよぎった。


 もし仮に……あの男が自分と敵対し、軍内で主導権争いをするようなことがあったら……。

 あの事務方的人材が情の深さや人の好さといった己の持つ能力を最大限に行使して、稚拙な主義主張のもとに小心な責任感と虚栄心に基づく活動を始め、派閥を為して軍を動かそうと欲したら……。


(馬鹿馬鹿しい……)


 その次の瞬間、己のあまりにも荒唐無稽な妄想に、猛烈な脱力感に襲われた。

 石原は乾いた冷たい風のひと巻きに、肩を竦める。

 こんなくだらないことを考えている暇など一寸たりともない。

 先日来から己の頭を占めて出ていこうとしない、満州の茫漠たる平野と軍兵のこと以外に考える暇などないのだ。


(さあて。後はこの身体が最後まで持てばいいが……)


 コフコフと。

 乾いた音を立てて喉が鳴った。



 1937年2月、石原莞爾、陸軍少将に昇進、同時に関東軍参謀長の辞令を受ける。



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