第三章7
石畳の通り沿いにある年代物のカフェ。
その裏手、薪ストーブの熱も届かない狭い地下室には、重い空気が充満していた。
北ドイツの冬はまだ続いており、湿った石の壁が吐く冷気に、誰もがコートの襟を立てていた。
丸いテーブルを囲んでいる五人の男。
皆うなだれるように沈黙したまま、ただ時折、コーヒーを口に含む。
やがて最初に口を開いたのは、摘発されて廃刊になったばかりの新聞記者だった。
「――聞いたか? 日本が我々を満州に受け入れているという話を」
ぼそぼそと。
目に見えぬ監視者を憚るような声だった。
「らしいな。だが額面通りに受け止めていいものでもあるまい」
年配の医師が眉をひそめる。
「あの国も多かれ少なかれナチスと繋がっているはずだが。中国大陸への侵攻と国家樹立を各国は認めておらず、今やドイツとイタリアが友好国の筆頭だろう」
「だが、日本はまだドイツとの正式な軍事同盟を結んでいない」と割って入ったのは、最近ベルリンから移ってきたばかりの化学者だった。
「むしろ断ったらしい。駐独大使が外交協定に関する交渉を打ち切ったと……。それから堂々と、国家を挙げてユダヤ人保護をはっきりと謳っているらしいが」
「噂だけで我々の命を預けるのか?」
医師が低く唸るように言った。
「信じたい気持ちは分かる。だが我々は、ドイツを信じて失敗したばかりだ」
「それでも――」記者が呟いた。
「それでも、ナチスが手を回せない場所が他にどれだけある? オリンピックの間は鳴りを潜めていたのが、また元の木阿弥どころか、さらに苛烈になりそうじゃないかっ」
沈黙。
その言葉が真実であることの何よりの証明だった。
上階で薪が爆ぜる音が、遠く聞こえる。
ゆらゆらと影だけが橙色の明かりの中に揺れていた。
「日本は」
科学者の男が何かにすがるような顔で言う。
「技術者をとにかく必要としているらしい。ユダヤ人のみならず、専門分野に通じた人材ならば誰であろうと、満州に於いて保護し門戸を開くと。――つまり、彼らはユダヤ人だからというわけでなく、さらに自分たちの都合を隠そうともしていない。なんら交換条件の無い慈善事業というよりはよほど……信用できるんじゃないかとは思う」
「それで?」
「それでいいんじゃないか? 我々は“利用されて生き延びる”ということを、今こそ考えるべきかもしれない。利用価値のないユダヤ人が、ヨーロッパに居場所を持てると思うか?」
「……」
再び沈黙が落ちた。
だが今度のそれは、凍える疑念のためではなく、各々が思考の中に深く潜ったためだった。
「これからどうなるかはわからないが、少なくとも今はまだ日本はナチスの犬ではない」
「子供を連れて逃げられる場所があるなら、私は行くぞ」
一人また一人と、その場で答えを出すわけでもなく、小さく呟く。
まるで、灯が燃え移っていくように生き残ろうとする意識が連鎖していく。
「……希望があるかもしれん」と記者がぽつりと言った。
「今まで、ただただ逃げていただけだったが。今度は前に向かって進んでいくための道行になる。そんな気がするんだ……」
医師はそれでも渋い顔をしていたが、最終的には黙ってうなずいた。
相変わらず凍えるような冷えた空気がその場には満ちていたのだが。
一同は少しだけ、どこかに温もりがあるような気がした。




