第三章6
「勝てるかね?」
一切の説明を放棄してまず聞いた。
「無理だ」
即座の、迷う様子もない断言であった。
「一応聞くが、どちらが我が軍かは確認せんでもいいのか?」
「馬鹿にしてるのか? 何故ここを選んだのかは知らんが、こりゃ満蒙国境のやたら浅い河だろう。地理的関係性からどちらがどうなのかは自明だ。それに戦力の内訳、兵種分布と機動兵器の多寡と。……後は何より布陣そのもの」
視線をゆるりゆるりと盤面を舐めるように動かしながら言う。
「一方は典型的な歩兵中心の横列。相手がどうだろうと、とりあえずこの形にするのは悲しいかな我が軍の特徴だろう。『俺がいなければ』こうなるはず」
傲慢なほどの自負心に裏付けられたその推察は正確無比としか言いようがないものだった。
「そして一方の……、なんだこれは……、そうか車両の機動性と突貫力を最大限に利用するとこうなるのか……。後は航空戦力も同時に使い、面ではなく立方的な空間制圧を目論むと……」
もうすでにこちらは目に入っていないかのように、ぶつぶつと自問自答を繰り返す。
瞬きも碌にせずに血走った眼をぎょろぎょろとうごめかす様は、狂人めいたものだった。
「こんだけの物量を縦に並べられて突っ込まれたら、まず間違いなく突破される。……だけでなく、そのまま後方まで……っ。そうか、なるほど、前線ではなく後方も含めた敵戦力全体が標的……つまりは」
やっと顔を上げた。
相変わらず目の色は変わっていたが、何か憑き物が落ちたようなさっぱりした表情であった。
「包囲殲滅だな」
あっさりと、当然のことを言うような風情にゾッとさせるものがあった。
そして藤林は、やはりこの男はただこれだけの情報で相当正確にソ連の戦術を見通してしまったことを知る。
今、石原が語っているのがまさに戦術史論で自分が学んだ、縦深攻撃理論に他ならなかった。
「……わかるのか?」
「機械化部隊と機動歩兵による新たな包囲殲滅の術に他ならんな」
きっぱりと。
何らの躊躇もなく断言する。
「どうやってこんな情報を持ってきたのか知らんが、ソ連が本当にこんなことを検討しているなら、まともにやったら我が方はまず間違いなく勝ち目はない」
「そうか、やはり君でも難しいか」
「ちなみにだが、向こうの兵器についても情報はあるのか?」
藤林は覚えている限りのことをそのまま言った。
もう未来知識だからとか、本来ならありえない情報だなどという葛藤は微塵もなかった。
何故なら、まさにこれが今後の日本の運命の分水嶺だと確信していたから。
例え平成令和の自衛隊員、空挺団の精鋭と云えども、戦場全体を見通して勝つ方法、それもこの時代の戦争のやり方など全くわからない。
いやせいぜいが所、知識として何があったかを知っているくらいで、現実的に行動に移せるというものではない。
だから藤林はもうこの時代随一の軍事的才能の持ち主にすべてを預けてしまうつもりであった。
恐らく現時点では日本の誰も知りようがない、Tー26、BT各戦車の仕様、大まかな台数、さらには装甲車や航空戦力についてまでも持つ限りの知識をすべて披歴してしまう。
石原は途中、何度も目を見張り、唸るような所作をした。
だがそれだけだった。
恐らくあって当然の疑問と不審、およそどのような諜報外交組織でも掴みようがない情報の洪水にも反応せずに。
話を遮ったり、問い直したり、一切せずに最後まで聞き続けた。
やがて。
「……以上だ」
なにもかも。
そう、あの歴史的軍事衝突に関して己が知る何もかもをすべて藤林は話終える。
石原はいつしか腕を組み、目を閉じて、まるで深い眠りに落ちたかのように動かない。
だが、閉じた瞼の裏にははっきりと覚醒した意識があり、莫大な量の思考作業を猛烈な速度で行っていることは疑うべくもない。
全身から揺蕩うように溢れ出る、精神力。
あるいは魂のゆらめき。
そんな非現実的なエネルギーとしか言いえないものが、確かに彼の身体から滲み出ているのを感じていた。
「……まずあの布陣では一切の可能性などないのは前提として」
ポツリと、何の前兆もなしに再び石原は語りだした。
「仮に同等の兵数があったとしても装備の差でどうやっても、勝ちはないな。まず主力戦車の性能がまるで違う。我が方の八九式と九五式では正面からの撃ち合いなどまるで不可能だ。いいとこ、機動性を生かした牽制か急襲戦術をするくらいにしか使えんだろう。もし仮に、数だけなんとか拮抗するくらいに集められたとしても弾幕戦になったら一蹴だろうな」
「……」
「他の機械化部隊と歩兵の性能火力、すべてがそんな感じだ。まず勝ち目などない。……ただ、あの出方さえわかっているならばやりようはあるかもしれんが」
「っ! や、やれるのか?」
「勝つのはどだい無理だ。だが負けぬようにするのは何とか、ギリギリ、できるかもしれない。敵戦術の要諦は機動能力と火力を最大限に生かした突貫にこそある。ならば硬直的で融通の利かない戦列防衛線というものを捨てちまえばいい。ようは……」
こともなげに石原は言い放った。
「突破されてもかまわぬような深く厚い陣形を幾重にも敷けばいいということだろう」
そして藤林は、この日本が生み出した戦史上有数の才能を本当の意味で思い知ることとなる。




