第三章5
『貴様は相変わらずそうだな……』
『勘も鈍っておられるでしょうし、内地から見当はずれのことを言い出さぬよう、重々頼みますよ』
『若造が。お前にそんなこと言われるとは俺も焼きが回ったもんだ』
『三つしか違わんですが。まあアンタが年寄りなのは否定しませんが』
全く異なるタイプ故、必然のぶつかり合いを見せてから、小畑が退出した後。
ドカッと我が物のようにして石原は陸軍次官室の奥にある打ち合わせ用の卓に据えられたソファーに腰を降ろした。
すでに何度か話をするために呼び出してはいる。
だからもう、勝手知ったるなんとやらだというのは了解しているのだが。
この時代の軍人としては常識外れに型破りなのは事実であろう。
いや、時代を超えた傍若無人、天才ゆえの欠落めいたものも、藤林はもう慣れたものであった。
「で? 大陸行の準備もあるから暇ではないのだがな」
他に人の目がなければ、何時しか敬語を使うこともすっかり放棄している。
知性、洞察、あらゆる能力と共に、距離感さえも我が道をいくことしかできない男である。
それでも石原莞爾と永田鉄山は、恐らく史実ではこんな関係ではなかったのだろうことは間違いない。
全てはあの、藤林が試みた接触と説得、それからの変化であった。
それまではまだ、近からず遠からずの協力関係にある上役に対する態度以上のものはなかったのだ。
組織改革と満州政策という目的に於いて結びついていた二人の陸軍軍人の、本来の関係性というのはその程度のものだったに違いない。
それが、こうも砕けて慣れ慣れしいものになってしまったのも、己が試みた歴史の修正、因果の狂いの一つに他ならないのだろう。
だから特に気にする風もなく、藤林は石原に言う。
「君が行く前にどうしてもやっておきたいことがある。……満州における対ソを想定した軍事衝突の仮想戦、その対応についてだ」
「アンタが? 俺に? ……はっ、何を話すってんだ?」
軍政屋の素人が、一体何を言い出すんだと言わんばかりの態度であった。
作戦立案執行、さらには現地指揮までこなすプロフェッショナルの自分に対して、いくら有能と云えども所詮後方の事務方軍人がと。
藤林は突出した才能を持つ、歴史的傑物のそんな正直な様子に全く動じなかった。
むしろこの男の個性と能力、そして経歴を考えればさもありなんとしか感じない。
なにせ、満州事変の首謀者であり成功させたという破格の功績をもつ、この時代きっての英雄なのだから。
その存在の大きさは後の時代になってたびたび再評価をされ続けるのを知っているからこそ、納得するしかないものだった。
だが。
「まあ素人のいち意見として、辛抱して聞いてくれ」
と、壁に張り出されていた満州周辺地図を取って、卓の上に敷いていく。
そして机上演習用の、歩兵、戦車、航空機、火砲などを表す駒を取り出すと、迷うことなく並べていく。
その間ずっと、石原がくどくどと如何にして無益な時間を過ごさなくてすむかと述べ続ける口上を聞き流しながら。
「どの程度現場をわかってるのか知らんが、いくら政治がわかろうと、相互に布陣した軍をどうこうなどと、簡単に語れるものではない。慣れぬことに手を出すとやけどするだけだからやめておけと忠告するぞ。……満州の権益の部分放棄やら開発方針については異論はないとさんざん確認しただろう。それ以上、今時点で俺とアンタで共有するべきものがあるとは思えんが」
「あくまでも一つの可能性としてだ。外交筋や諜報から伝わる諸々の情報から、ソ連が仮に本格的軍事行動を起こすとしたらどのような形になりうるかを私なりに検討してみた」
「素人の生兵法ほど危険なものはないのだがな。……ん?」
と、あくまでも口を出すなという態度に終始していたはずの、石原がいつしかじっと盤面から目を離さなくなる。
そして藤林が置いていく布陣、川の両脇に並べていく陣形の全体像が形作られていくに従い、その視線はどこまでも鋭くなっていく。
「……」
完成するころには全く口を利くこともなくなった。
藤林は沈黙が支配するままに、石原の様子を観察するように待ち続ける。
まず間違いなく、今、希代の戦略家の頭脳が休むことなく凄まじい回転を始めているのを確信して。
どれだけ時間が流れたのか。
ちくたくと、高級柱時計が刻む時針の音だけが室内に木霊し続けた。
片や、南北に流れる川に沿うように縦に長く薄く伸びきった防衛線、歩兵主体の戦列。
片や、対岸でひたすら深く厚く、突貫する意思をまざまざと形にしたような機動兵器主体の戦力塊。
じっと視線を注ぎこみ続ける日本陸軍珠玉の天才は今、そこに何を見ているのか。
さらに無言の時間が流れた後、ようやく一言、石原は発した。
「……これはなんだ?」
1939年、ノモンハン。
藤林が記憶する限りの、そのままの状況を再現した机上布陣に他ならなかった。




