第三章4
藤林を懊悩させる原因のもう一つがアメリカとの交渉だった。
元々藤林は日米交渉については楽観視していたのだ。
史実での推移を鑑みる限り、この時点で権益の開放を申し出れば相当な確率で、アメリカは満州への資本導入を受け入れるものと考えていた。
そうして石油メジャーと国土開発という強固なつながりができれば、当面、石油を含めた資源輸入に関するリスクはほぼ解決するも同然になり、かつ考えうる最悪のシナリオである日米開戦という結末を迎えずに済むものと。
だから中国やソ連などその他の悩ましく悲痛な展望しかもてない問題に比べ、意気揚々とした想いで待ち受けていた、外交官から受け取った第一報にわが目を疑ったのだった。
それはおよそ、藤林が想定していた何倍、いや、考えうる限り最も苛烈かつ受け入れがたい内容としか言いようがないモノだった。
満州および、中国からの日本軍の完全撤退。
また満州国の解体と列強各国および中国による共同統治。
事実上の大陸権益の完全放棄を意味する条件以外の何物でもない。
およそ日本の現状を鑑みれば受け入れようがない非現実的な要求である。
ましてや、未だ日中戦争も仏印進駐も発生していないのだ。
にもかかわらず、史実の条件よりも厳しい内容というのは常軌を逸している。
(これではまるで……無条件降伏勧告ではないかっ)
アメリカが得意とする、最初に大きな要求をするディール(交渉術)だとしても、あまりにも過剰なものであろう。
曲がりなりにも国家が主権を主張する場所をそう易々と譲れるわけがない。
部分的権益開放ですら政界・軍部を巻き込む綱渡りの交渉であり、日本が譲歩できるギリギリのところなのだから。
全権益無条件放棄を受け入れ、領土をそっくり明け渡すなど、言うに及ばずである。
藤林はなぜこうもアメリカが交渉する気が無いとしかいいようがない態度を示したのか全く理解ができず混乱するしかなかった。
この1936年時点ならば、史実における日米交渉よりもよほど条件はいいはずだったのにと。
一応、交渉を試みたばかりだから、今後継続的に続けることは既定路線といえども、完全に出鼻をくじかれた形である。
(ばかな……。アメリカは一体……?)
どんなつもりだというのか。
最も可能性があると見込んでいたことの先行きの暗さに、否応なく沸き立つ喪失感を飲み込みつつ、引き続き外務省と現地武官の働きに望みをかけるしかなかった。
何故こんな苛烈な態度をとるのか、合理的な理由、その真意を把握するよう努めるしかない。
と、理解不可能な大国の態度に執務机で思い悩んでいたとき、全く想定していなかった来訪者を告げる秘書官の声に思考は中断されたのだった。
小畑敏四郎は藤林が持つ知識、後世に伝わる逸話や人物評そのままの、剛毅な武人然とした男であった。
扉を開けて、こちらを一瞥すると無言で入ってくる。
藤林が迎えるように立ち上がるも、どう言葉を発すればいいかと逡巡している間に、先制するようにポツリと一言呟いた。
「感謝はせんぞ」
数秒、意味が解らなかった。
だが、伝え聞く彼と永田鉄山の関係、逸話が思い起こされてようやく理解する。
かつて「バーデン=バーデンの密約」によって、永田鉄山、岡村寧次とこの小畑の三人は陸軍の組織改革を目指す同士にして盟友だったのだ。
それが永田と小畑の間でいつしか対ソ連、中国を巡る戦略に対する意見の違いが生まれ、果てには決裂に至る。
特にその衝突の激しさは有名で、相互に感情むき出しの応酬をしたらしい。
その後、相沢事件で永田が落命し、皇道派だった小畑は226事件の余波で予備役になるというのが史実だったのだが。
藤林は未然に226事件を防ぐために行った、皇道派に対する一連の粛清人事の対象に小畑を含めずにそのキャリアを進めたのだった。
開口一番の言葉も恐らくそのことを言っているのだろう。
あれほど蟠りがあり、今や全く口も利かなくなった敵対派閥の人間に何故便宜を図るようなことをと。
「感謝されるようなことはしておらんな」
なんとなく脳裏をよぎる永田の記憶。
この男との関係、言葉使い、態度が自然と己を支配する。
「今は一人でも使える軍人がいる、ただそれだけだ」
藤林にとっては特に抵抗や葛藤とも無縁な、単に合理的判断によるものでしかなかった。
なにせ彼は北進論の第一人者、対ソ連を想定した軍事専門家としてこれ以上ない人材だったのだから。
今後、藤林が構想する満州政策において、有用なのは間違いないと確信していた。
今は独りでも優秀な軍人が必要だったのだ。
あの満州の平野で起こる凄惨な軍事衝突を迎えるために。
「……ふん、結局貴様が言っていた通り、シナ情勢は危うそうだな。そして俺が言っていた通りソ連に対峙する必要もあると」
「どちらが間違っていたわけでもない。どちらも正しくて足らなかったのだろう」
そもそも感情的なしこりがあったのは永田鉄山であり、自分ではない。
藤林は現実的な対応として、小畑を利用する心づもりだけなのだから。
こんなことでこじれていたものが解消されるなら、好都合である。
そうと知ってかしらずか、心無し重いモノから解放されたかのように。
小畑はフッと唇だけを曲げると、初めて感情を表にだした。
恐らくかつてはそうだったのだろう、往時の二人の関係を思わせるざっくばらんな態度で言った。
「国難の折、もはや俺らの感情だけでどうこうするのは下らんな。謹んで参謀次長の任、受けさせてもらう」
「……頼む」
互いにさほど言葉を重ねる必要はなかった。
と、そこに。
「石原、入ります」
ノックすることもなく不躾に入ってきたのは石原莞爾だった。
呼びつけていたのを思い出す。
そしてさも意外なものを発見したように小畑と自分の顔をしげしげと見比べると一言。
「なんだ、アンタらもう喧嘩はやめたのか?」
と、小ばかにしたように口にした。




