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第三章3


 中国外交にさしたる進展もない懊悩を抱えたまま、その日藤林は陸軍省の応接室へと向かっていた。

 通路に面した窓から差し込む、午後の光。

 深まる秋に鮮やかに色づく紅葉をその先に映しているのを眺めながら足を進めていく。


(外務次官の堀内と……)


 これから会う相手の情報を予習するように思い描く。

 現外務次官を務める堀内謙介とは同じ次官級の役職者として何度もやり取りをし、すでに見知った相手である。

 この時代の外交官らしい、表向きは柔和な物腰の底に、どこか腹の座った覚悟を思わせる有能な人材だという印象であった。

 実際、あれこれと関わるうちにその外交的バランス感覚、各国の複雑で面妖な利害と本音を見据える確かな見識は信頼に足るものだと確信している。

 特に陸軍の一大方針転換を持ち出した永田鉄山には前向きな印象を持ってくれたらしく、個人的友誼のようなものも隠さずに示しつつあり、藤林が外務向けの調整をするさいには非常に心強い味方になりつつあった。


 その彼がこうして改めて対面し、話をしたいというのは最近ではさほど珍しいことではない。

 難航している中国情勢、または満州関係、ソ連とアメリカについて、お互い密に確認し合うことは常に減ることはない。


 ただ、特に今日に限って常とは異なるところがあるとすれば。

 彼だけでなく、もう一人の人物を伴って連れてくるということであった。


「鮎川儀助……か」


 未だ一面識もなかったにも関わらず、すでに藤林にとって、そう無関係ともいえぬ響きをもった名前が口から漏れ出た。



 深々と磨き上げられた黒光りする堅木製の扉を開けて入っていくと、待ち受けるようにソファーから二人の人影が立ち上がる。

 一人はすっかりなじみとなった外務次官の堀内。

 大きなフレームの眼鏡をした、インテリ然とした風貌は相変わらずである。


「いや、今日もお邪魔しますよ、永田さん」


 知性を感じる柔らかい響きの声で堀内がまず口を開く。


「いえ、こちらこそどうも、ご足労いただいてしまって」


 足を進めつつ、応える。

 そのまま対面側のソファーの前に。

 自然、もう一人の存在へと視線が移っていった。


 髪を短く刈った無駄のない輪郭に、およそ商売人とは思えぬような鋭い視線。

 それでいて口元には媚びや諂いとは異なる、愛嬌を感じさせる親愛的な笑みが浮かぶ。


 この時代、日本を代表する一大企業である日産コンツェルンの創始者。

 そしてさらに満州における重大なキーパーソン。

 かつて石原を説得するために持ち出したユダヤ人移住計画、米国資本の呼び込みを画策した男。


「初めまして、鮎川と申します。この度は斯様な機会を頂戴しまして誠にありがとうございます」


 彼こそが鮎川儀助その当人に他ならなかった。



 元々、藤林にとって史実の河豚計画、ひいてはユダヤ人の満州への移住誘致はさほど重要なものではなかった。

 あくまでも至上目的はアメリカメジャーによる満州開発と資本投入そのものであり、ユダヤ人自身はそれをやりやすくするための補助的意味合いという程度の認識であった。

 ただ、少なくとも可能な限り促進する方がいいのは自明であったため、はっきりと国策に明記し盛り込んだのである。

 史実ではさほどうまくいかなかったのだから、恐らく大した効果はでないだろうと思いつつ。


 ユダヤ人が持つ民族的指向性、宗教的本義ともいえる祖地に対する執着と神聖視が如何に根深く存在理由そのものと言っていいものかというのは、未来世界で嫌という程目の当たりにさせられたのだ。

 かつての被害者がまた今度は別の悲劇の当事者になりうるという歴史の皮肉、感情的なヒューマニズムではどうしようもない淡々たる現実への無力感もまた藤林の時代の人間ならば多かれ少なかれ共通して持たざるを得ないものであっただろう。

 そうまでしても拘り、民族的自決を以てあらゆる手段で維持し続けた彼らの覚悟と行動の歴史を知っている。

 だから他の異邦地などに、容易に定着してくれるとは決して思ってはいなかった。

 ただ、ドイツを刺激しない程度に国家施策として推進すれば、もしかしたらそれなりの規模の移住が叶い、アメリカ世論への影響があれば御の字程度には考えていた。


 だから話を始めて早々、鮎川から熱っぽい感情を赤裸々に隠すことなく向けられても、むしろ困惑の方が強かったのだ。


「おかげ様でユダヤ人誘致を早速進めさせていただいております。これまでは正直、関東軍の皆さま方と調整していた限り、あまり前途も見えなかったものですから。それが晴れて御国の旗で行えるとあって円滑に事が進み始めておりますよ」


 感謝したりないと言った風情で、莫大な富を持つはずの経済人が頭を下げる。

 藤林は正直そこまで思い入れがあったわけではないから、やはりなんとも言えない居心地の悪さに包まれた。


(何が原因かはしらないが、確か失敗したはず。多少歴史が変わったと云えども、どこまでうまくいくかはわからんのに……)


 そう内心、罪悪感めいた気まずい想いがよぎる。

 思わず、腰が引けたような響きが応える声にも現れたかもしれない。


「そ、そうかね。それならよかった。私も個人的にだが、ユダヤ人のことには心を痛めている。道義としてできることはやってやりたいとは思う。何より経済的効果をもたらしてくれれば御の字であるしな」


「本当に、本当にありがとうございます。ヨーロッパの各地ですでに外交官の皆さまを通じてお話をしていただいているとか。我が方も関係企業を挙げてご協力させていただいております。じきに第一段の移住者の目途などつきましたら改めてご相談いただくかと思いますので、その節にはまた何卒よろしくお願いいたします」


 再度深々と下げられる頭を前に、藤林は何とか陸軍の重鎮たる態度を崩さずにいることしかできなかった。


「まあ、当初想定していたほどにはドイツの抗議や反発もありませんでしたしな。まずは滑り出しは上々そうですよ」


 ほっこりと安堵を隠すこともなく、堀内が言う。


 確かに藤林にとっても、ユダヤ人保護誘致を打ち出した時のドイツの反応は意外ではあった。

 平成令和の人間としては、てっきり何が何でもユダヤ人は追い詰めて根絶やしにすることを国是としているのだろうという認識だったから。

 だから当初は極力ドイツを刺激しないようにと、実に細やかに気を使った対応を外務省のみならず関係各部と綿密に調整したのだ。


 それが。


 ナチスドイツはそんな日本の方針表明に対して実にあっさりと、むしろ拍子抜けするような態度を示すだけだった。

 外交官を通じて齎されたのは、一応警告めいたことが書いてはあったがそれ以上でもない、意訳すると『勝手にどうぞ』程度の響きしかないものだったのである。

 それをこの堀内から聞かされたときには、安堵するとともに、どうしても自分が持つナチスドイツのイメージとの乖離に困惑したのであった。


(いや、むしろナチスは……)


 もしかしたらユダヤ人の生死にすら興味がなかったのかもしれない。

 ……つまり彼らにとって、生かすに値しないから殺すのではない。

 生きていようが死んでいようが、そこにいること自体が問題で、存在の処分が必要というだけ。


 あの歴史に刻まれた悲劇も、単に国内に大量に抱えたしまったものを持て余した……その程度の感覚だったのではないかと。

 もしかしたら虐殺したという認識すらなかったのかもしれない。

 単に効率的に管理隔離しようとしたら、結果的にそうなったとでもいうような。


 あまりにも醒めて乾いた視座と感性。


 合理的現実主義の酷薄さにゾッと眩暈めいたものが巻き起こる。

 図らずも幻視してしまった、ナチスドイツのユダヤ人への感覚。

 そしてまたその後の歴史でユダヤ人が自ら背負っていくことになる血みどろの宿命。


 超自然的な力の介在すら想いたくなる、悍ましき因果の螺旋。


 藤林は歴史的知識としてしか知らなかった以上の怖気を、その時感じたのだった。


「満州の開拓にはまだまだ人手も技術も足りませんし、これで軌道に乗れば言うことありませんな」


 は……っ、と。

 かつて想像してしまった排斥主義の本質へ意識が向かっていたのが、耳を打つ堀内の言葉で戻された。

 何はともあれ、ナチスがさほど拘っていないのなら、こちらにとって僥倖なのは間違いない。

 従来通りの国交を維持したまま、満州へのユダヤ人受け入れを可能にできるなら、言うことはない。


 中国、アメリカ、ソ連との外交など、全く進展が見られない諸問題に対して、非常に明るい展望の事案があることにほっと救われるような気持ちになった。

 たとえどれだけその影響が国家全体の施政方針から言えば微々たるものであったとしても。

 成功体験が一つでもあるのとそうじゃないのとではまるで心の持ちようが変わってくるものである。


「全く。まったくもっておっしゃる通りです。ぜひとも今後ともお二人にはご尽力いただきたい。陸軍としても可能な限りの後押しはさせていただく所存ですので」


 応接室に入って初めて、藤林の顔には心からの笑顔が浮かんだ。

 そして最後に、それまでの感激屋然とした雰囲気が鳴りを潜め、実に巧緻で計算高い商売人そのものといった本性を現したかの如く、鮎川が言った。


「それでは……予定している満洲重工業開発株式会社についても、引き続きご協力のほど何卒、お願いいたします」



 三者皆、語ることはすべて終わったことを示す、暗黙の了解が齎されると、「それでは」という堀内の言葉でソファーから立ち上がる。

 「失礼いたします」と鮎川が先に告げると、堀内は先に行くよう促してこちらを向いた。


(ああ、何か報告があるのだな)


 と、すぐに察する。

 そして扉が閉まり、鮎川が出ていくと早々、堀内は他に誰もいないはずの室内にもかかわらず声を潜めていった。


「張学良の姿が近頃見えないそうです。国民党の中で何かが起こっている可能性が高いと……」


 藤林は少し前に、膠着している中国情勢へ投じる一手として依頼したことを瞬時に思い出した。

 張学良に対して蒋介石の注意を向ける、どのようなものでもいいから手段を講じてほしいと。

 もしかしたらという一念のみで検討した無数の方法の一つ、それがまさに今歴史を動かしたのかもしれないと、ゾクッと身震いを抑えられなかった。


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― 新着の感想 ―
鮎川自動車は今、エラいことになってます。エラいことにならずに済むような道筋を作れるでしょうか。
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